皮膚・自我

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  • サイズ B6判/ページ数 401,/高さ 20cm
  • 商品コード 9784905913474
  • NDC分類 146.1
  • Cコード C1011

出版社内容情報

〈皮膚〉の困難と試練は、胎乳児期に起源をもっている。この時期に、接触感や音や温度、嗅い、味覚、筋肉、苦痛、興奮、夢などの諸感覚の外被が形づくられ、〈皮膚―自我〉として構造化されるが、構造が脆弱だったり欠陥があると、〈考える自我〉の共通感覚がうまく形成できなくなる。母(皮膚)に包まれて生まれる子どもの初期的な自我の構造、機能、病像と超出の心的過程をあきらかにした労作。

ディディエ・アンジューは1923年、パリ近郊のムラン生まれ。1945年、エコール・ノルマルに入り、48年に哲学教授資格試験に合格。パリ大学心理学研究所の過程を終え、1957年に『フロイトの自己分析』で文学・人文科学博士号を取得。この論文は1988年に大幅な改訂による版が刊行され国際的に高い評価を受けている(邦訳は未刊、岩切正介の部分訳が『飛行』24号〈1991年春、ガーデン会〉にあり)。1964年にパリ大学ナンテール校の心理学教授に就任、83年に退官、99年死去。
ラカンの学位論文『人格との関係からみたパラノイア性精神病』中の著名な症例としてしられる「エマの症例」はアンジューの母の症例であった。アンジューは師ラガシュとともにラカンを「導きの糸となった人」としてあげているが、はじめ二人はこの事実を知らなかった。のちラカンとは離反し、フランス精神分析の一つの流れをつくった。アンジューの精神分析は、フロイト理論の初期からの再構とともに、メラニー・クライン、ウィニコット、メルツァー、ビオンなど、英国のクライン学派により親近する立場から独自な理論を構築している。集団精神分析の名著『集団と無意識』(言叢社、→言叢社分類B)はもう一つの主著。

「人間にとって皮膚とはどういうものなのか、人間はなぜ何かに包まれていたいと思うのか、しかしときにまたそれが破れているように感じるのか、それを傷つけ孔をあけてみたいと思うのか。『わたし』が何ものかからの分離によって、つまりは皮膚の引きはがしとして、誕生したことに、それはおそらく深くかかわっている。……密着、しがみつき、温み、冷え、痛み、かゆみ、重み、はがれ、震え、吐き気、声、ざわめき…そして自己破壊、言葉という別の皮膚、こういう感覚の渦のなかで『わたし』がどのように呻いてきたかを論じる。」(鷲田清一/共同通信「21世紀らいぶらりい」 2000.12)「皮膚はこのように、ときには他者との深い交通の窓となり、ときには自己の硬くてもろい鎧あるいは防壁ともなる。……この分析を紡いでいるのはしかし、『私』という存在の壊れやすさへの、詩的ともいえる繊細な想像力である。」(鷲田清一/読売新聞 1994.1.10)

「驚くべき本だ。芸術の皮膚論なるものを唱えて『鏡と皮膚』というテーマで雑誌連載を続けていた私にとって、強力な援軍とも恐るべき衝撃ともいえる書物である。」(谷川渥/『みすず』1994年1月号「1993年読書アンケート」)
「転移神経症が大きな意味を持つラカン的分析は、いわゆる『境界例』になかなか触れたがらないものだが、その点アンジューは、まさしく皮膚―自我というコンセプトゆえに、この問題に正面から取り組めている。」(赤間啓之/図書新聞 1994.2.12号)

内容説明

乳胎児の母と子の交通の構造を用意する、接しあう皮膚面。そこから、自我の原初的構造としての〈皮膚‐自我〉が立ちあらわれる。エディプス段階以前の原幻想に視線をこらし、音や温度、嗅い、味覚、苦痛といった諸感覚の外被の生成が、いかに個体にとって重大な意味をもつか。その構造、機能、病像と超出の心的過程を解明する精神分析学の画期的論著。

目次

第1部 発見(認識論的立場に基づく序;四連のデータ;「皮膚‐自我」の概念;ギリシアにおけるマルシュアースの神話;「皮膚‐自我」の形成)
第2部 構造、機能、超越(「皮膚‐自我」の二人の先駆者―フロイトとフェダーン;「皮膚‐自我」の機能;基本的な感覚運動的区分の障害;自己愛的人格および境界例における「皮膚‐自我」構造の欠陥;二重の接触禁忌、「皮膚‐自我」を乗り越える条件)
第3部 主要な構成要素(音響の外被;温度の外被;嗅覚の外被;味覚の混乱;筋肉からなる第二の皮膚;苦痛の外被;夢のフィルム)