悲情城市の人びと―台湾と日本のうた

悲情城市の人びと―台湾と日本のうた

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  • サイズ B6判/ページ数 228p/高さ 20X14cm
  • 商品コード 9784794961037
  • NDC分類 778.222
  • Cコード C0036

内容説明

1989年ヴェネチア映画祭グランプリに輝いた台湾ニューシネマの傑作『悲情都市』。終戦によって50年にわたる日本支配から解放された台湾の人々が、祖国のあたらしい支配者に弾圧される悲劇を描くこの映画のなかで、処刑される青年たちが日本の戦前の流行歌『幌馬車の唄』をうたう。40年におよぶ戒厳令がとかれたいま、人々は重い口を開きはじめた。日本占領下の日々、「二・二八事件」の真実―。歴史の波間にゆれ動いた台湾の深い悲しみを追う力作書下しノンフィクション。

目次

1 『幌馬場の唄』を知りませんか
2 二・二八事件の暗い影
3 帰れないふるさと
4 根をおろした日本の歌
5 忘れられない歳月
6 言葉の壁
7 タタミと外省人
8 思い出の反戦歌
9 台湾の悲情
10 獄房の大合唱
11 旅のおわりに

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

ナウラガー_2012

1
の4点からなり、台湾人の日本人化運動)が行われ台湾では寺廟整理が行われ神社にしようとしたが、日本統治時代は日本のお祭りも台湾のお祭りも両方行われた/台南に「葉包花」という葉の表が緑色で、裏側が紫色の咳止め効果のある草があり、草の葉や花を砂糖と一緒に煮て飲む/祖国復興を台湾では「光復」というが、大陸から来た兵隊に失望し「犬去りて、豚来たれり」と嘆いた。二・二八事件で台湾の多くの精華、大学教授や医師、教師達が虐殺された2010/06/01

ナウラガー_2012

1
「雨夜花」「望春風」「河辺春夢」等の数えるしか当時は無った【日本統治時代台湾】は、日清戦争の結果下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲された1895(明治28)-WW2後日本の降伏後の1945(昭和20)までの50年間。1922、清教育令発令により小学4-6年生は日本語を使用と決められ、差別的なもので台湾人には中等教育以上の進学は困難だった。1901年頃には日本への留学者も出始め、神田の金城中学に留学する人が多かった。1937日中戦争勃発頃から皇民化運動(国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革2010/06/01

ナウラガー_2012

1
『悲情都市』(台湾映画):1989年ヴェネチア映画祭グランプリ。侯孝賢監督。1945-1949、日本人が台湾を去って国民党政府が来るまでの間のある台湾人華族の話。台湾の人々が、祖国のあたらしい支配者に弾圧される悲劇を描く映画。処刑される青年たちがなぜか日本の戦前の流行歌『幌馬車の唄』を歌う。『幌馬車の唄(1932和田春子が1935には松平晃が『急げ幌馬車』で歌った)』は日本人が侵略地・満州へ新たな夢を持ってかりたてた唄。もとはスコットランドの民謡。日本統治時代の終わりから、中華民国が台北に遷都するまで2010/06/01

惰性人

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日本支配から解放された台湾の人々が、大陸からわたってきた国民党政府に弾圧される悲劇を描いた映画、非情城市。その中で銃殺刑に処される青年が、死の直前に口にする日本語の歌。その歌を訪ね歩いた旅の記録です。2009/09/23

ナウラガー_2012

0
2.28事件の前にも「アミ族事件」というのがあった:花蓮と宜蘭間の列車やバスは日に数本しかなく、苦労して手に入れた切符を持った乗客がバスの発車を待っていた所、中国兵が乗込んできて銃で乗客を脅し降ろした。バスの運転手も拳骨を中国兵に受けながらバスの出発を催促されようやく発車し、日本の軍隊で特攻精神を叩きこまれたアミ族の青年バス運転手は怒り、スピードを上げに上げて、断崖絶壁から海に真っ逆さまに飛込んだ事件/台湾で日本の唄が良く歌われた理由①メロディが綺麗で歌い易かった②1930年代の台湾には2010/06/01

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