出版社内容情報
亡き母を中心に据えつつ、現象学的方法によって写真の本質を探求したバルト独自の写真論=物語。
内容説明
本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(『それはかつてあった』)を明証しようとした写真論である。
目次
「写真」の特殊性
分類しがたい「写真」
出発点としての感動
「撮影者」、「幻像」、「観客」
撮影される人
「観客」―その無秩序な好み
冒険としての「写真」
鷹揚な現象学
二重性
「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
「ストゥディウム」
知らせること
描くこと〔ほか〕
1 ~ 1件/全1件
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
コットン
72
哲学書兼、私小説的で興味深く読了。自分的に気になったところをピックアップ: ①「写真」が芸術に近づくのは、「絵画」を通してではない(と私には思われる)。それは演劇を通してなのである。 ②時間を遡る「写真」のこの運動…生涯の終りにさしかかった母は衰弱していた。…母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。 ③「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。2018/12/15
たーぼー
64
相反する規則、ストゥデイム/プンクトゥムが実は共存することの確信。その要を得た所見が本著の基点と考えるが、どうもバルトの論調には各所でブレが見られる。それは『写真の持つ偶発性』の深淵に嵌まったバルトが亡き母の姿を追い求めるという感傷行為への変容にも表れている。しかし、これこそが生と死を写真論で内装する計画的思索であるから見事なものである。セピア色に変色した写真の中で無邪気なポーズを取る少女。ここに『かつて間違いなく存在していた(愛すべき)もの』をバルト自身が確証することで、彼の自己理想を見せられた思いだ。2018/09/10
松本直哉
31
絵画では作者が隅々まで支配するのに対して写真は、写り込みなど撮る者の意図しない偶然の介入が不可避なために、写真家の手を離れる。著者の言う「作者の死」は文学だけでなく写真にも適用される。Punctum を写真家の意図しない裂け目とすれば、それによって写真は複数の焦点をもつ多声的なものとなる。一枚の写真のどこに裂け目を見出すか、あるいは見出さないかは、見る者次第で変わるだろう。それゆえ、写真を見る行為は極めて個人的で、後半で著者が個人の思い出を語るのには必然性があるし、目を閉じたときにこそ写真はよく見えてくる2022/09/11
彩菜
24
バルトは思う、写真とは何か。答えは死んだ母の写真の中に顕れた。そこに写るのは現実のものかつ過去のもの「それはかつてあった」もの。それは彼に死を暗示する。写真の母の「既に死んでしまった」と「これから死んでしまう」が圧縮された時間、それが時間の原義を思わせるから。それは愛を狂気に導く。そこに母を見つけるが、写真において対象はいつもそこになく・他方それは確かにそこにあった、知覚の虚偽・時間の真実、彼が見るのは既に死んだ(まさに死なんとする)もの、狂気の真実だけだから。写真とは「それはかつてあった」、その狂気。2020/02/24
松本直哉
24
いつもの調子で軽やかにしなやかに写真を論じてきた著者が全体の半分にきたところで突然「前言撤回」して亡き母の追憶を語り始める。彼女の一葉の写真を前に彼は悼み悲しみ、時間は逆流する。かつて確実に存在していたのにもはや引き離されてしまったものを、写真はつきつける。なめらかで平坦で、商業的にあるいは芸術的に消費される「飼い馴らされた」写真ではなく、ほとんど間投詞しか発せられない失語症に主体を置く写真を論ずるにはこのような極私的な文体によるほかはなかった。「星から遅れて来た光」のように亡き母を照らした光が私に触れる2015/05/30