内容説明
写真の発明と映画の登場以後、映像技術の進展はつねに軍事技術の革新と歩調を合わせてきた。機械化・情報化され、映像と音響のスペクタクルと化した現代の戦争は、ついに「神の眼」のテクノロジー的形態を得ようとしている。二十世紀における知覚の変容の歴史を辿り、技術の本質を抉り出すヴィリリオの代表作。
目次
1 軍事力は虚像に支配される
2 見るのではなく飛行する、それが映画だ
3 イメージの地獄に足を踏み入れた君よ、あらゆる希望を捨てよ
4 臨場性の欺瞞(ペテン)
5 映画館「フェルン・アンドラ」
6 早いもの勝ち
7 八十年間のトラヴェリング
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
gorgeanalogue
4
前半は非常に面白かったが、後半は具体的な映画史との関係はやや希薄になる。このテーマであれば、シナリオと俳優(司令官と兵士)、スローモーションと残像(レーダー上の航跡)、編集とPTSD(フラッシュバックと過去回帰)、窃視とトーチカ・銃眼とかさらにいろいろ考えることができそうだな。「非現実化」とは「死の死」ということになるのかな。そして交霊が複数回始まる。2019/10/03
Ecriture
3
『速度と政治』、『ネガティブ・ホライズン』と並んでヴィリリオの中でも重要な著作。映画の出現によって戦争はいかなる変容を見たのか、あるいは戦争は映画そのものになってしまったのか。偵察機による高空からの軍事的覗き見・空撮が戦争の勝敗を決した20世紀前半、レーダー・通信機器の発達や高速度兵器の開発によって視ることがすなわち殺すことを意味するようになった二十世紀後半をヴィリリオお得意のドロモロジー(速度学)によって分析する。ドゥボールと主張を一にするスターシステムの考察やレーガンによる政治の映画化なども見所。2012/09/09
井蛙
2
軍事・通信技術の発展が物理的距離を抹消する段階に入った途端、視ることはその根源的な暴力を顕す。ここには奇妙な分裂があるようだ。①視ることは視られる対象を変容させずにはおかないのだが、それにも関わらず我々は対象を自己を没交渉的に捉えてしまうだろう。こうして現実というステータスはその価値を喪失し、スペクタクルがそれに取って代わる。②我々はさながら映画館にいるごとく一様に同じ対象世界を知覚することによって、かえってある種のモナドに分離される。③さらに我々は自身の身体感覚までも失うことによって自己を疎外するのだ。2018/11/23
Mealla0v0
2
映画とは、兵器である。戦争が機械化されればされるほど、実体よりも映像が、空間よりも時間が優勢となる。そうなれば、スペクタクルは兵器と化す。いまや、戦争は「物質的」勝利ではなくて、「非物質性」の支配を目指すものとなったのだ。かくして、実際になにを見ることもなく周囲の情報を精確に把握する必要のために、「知覚の兵站術」が要請されることになる。それは端的には映画によってもたらされた変化なのである。映画という「消失の美学」によって。こうして、戦争機械はオートメーション化され、光学運動の中に人々は投げ込まれるのだ……2017/08/15
a.k.a.Jay-V
2
戦争と映画なんだけど、その映画が出来る過程や状況、時代、をもフォローしているので(つまり、それらを含めて映画)必然的にそのバックボーンも含んで来る。というか映画本編よりそちらが軸になって来てる。映画的というよりポスト構造主義的。ロージーの風景のなかの人影なる映画は全く知らない。ご存知の方、是非ご教示を!2017/01/16