内容説明
万葉集の「見る」という語は、自然に対して交渉し、霊的な機能を呼び起こす語であった。人麻呂の解析を中心に、呪歌としての万葉歌、秘儀の方法としての歌の位置づけを明らかにする。
目次
第1章 比較文学の方法
第2章 巻頭の歌
第3章 呪歌の伝統
第4章 叙景歌の成立
第5章 挽歌の系譜
第6章 万葉の軌跡
著者等紹介
白川静[シラカワシズカ]
1910(明治43)年福井県生まれ。立命館大学名誉教授、文字文化研究所所長。1943年立命館大学法文学部卒。1984年から1996年にかけて「字統」「字訓」「字通」の字書三部作を完成させる
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ぴー
30
時代を超えた様々な研究を踏まえた上で、徹底的に再考する壮大すぎる万葉研究書。「万葉前期の歌の本質がなお呪歌的なものであることを人麻呂の安騎野冬猟歌から実証」し、「継体受霊の秘儀的実習歌とみるべき」とする部分は圧巻。万葉前期の歌は人麻呂が完成させ、人麻呂の死と共に急速に失われた。その際、挽歌であったものが相聞歌とされたり、すぐ後の時代でさえ読み違いがおこった。挽歌から短歌の基礎が築かれ、呪歌は抒情歌、抒景歌に移って行く。呪歌の要素は祝詞と同じ繰り返しと緩やかな変化。日本文学には、その流れが受け継がれている。2017/08/15
fseigojp
13
人麻呂で前期が終わる つまり呪術的世界の終り 額田大君の、あかねさす、むらさきのゆき、しのめゆき。。。も単純な座興の相聞ではなく、それから連想される豊作祈願だとする指摘は目から鱗のおもい2015/07/30
roughfractus02
10
言葉は個の発話なら心の表出となり、集団の発話なら共同体の安寧と発展への祈願となる。近代に勃興したアカデミズムは古代の資料にも前者の立場を採るが、著者は後者を突き詰める。前者で叙景歌とされるものは後者では霊地での招魂の呪文と解され、見ることは、世界を認知する知覚行為から地の霊に呼びかける行為となる(「安騎野の冬猟」)。『詩経』を短期間で習熟した柿本衆を担う人麻呂を、楚の巫祝集団を担った屈原と対比する著者は、『万葉集』の言葉に、神権政治から律令制へ、土葬から火葬へ、集団から個へと転換する激動の古代社会を読む。2020/12/10
はちめ
6
要は古代中国の詩経との比較文学論が展開されている訳だが、すんなりと受け入れられるということはない。一般的に万葉学の学者が展開している説とはかなり違いがある。逆にアカデミックな学会的には際物扱いの梅原猛との親和性の方が高い。素人的にはちょっと悩んでしまう。☆☆☆☆2019/10/11
あか
3
漢字の由来についての研究で知られる白川静の万葉論。正直なところ前提となる知識の多くについていけずわからなかった部分も多いが、万葉集前期の歌を「呪歌」という切り口で解き明かす手法は非常に新鮮でかつ興味深かった。律令制度への移行という政治史的な出来事と歌謡の役割の移ろいという文化史的な変遷が溶け合う様子を見事に論じ、元来このふたつがいつの時代であれ癒着しているということを改めて思い起こさせてくれる。古代の終焉においてその様式を完成させた柿本人麿という切り口は、その歌の読み方をいっそう面白いものにしてくれる。2017/02/05