内容説明
伝説によれば、脱走した三百人の囚人たちははてしない雪原をどこまでも越えて行き、阿寒の山麓あたりに彼等だけの共和国をつくり上げたと言われる。しかし、その後の消息は杳として知られない…。百年をへだてて彼等とその背後にあった榎本武揚を執拗に追う元憲兵、昨日の忠誠と今日の転向のにがい苦しみの中で唯一の救いである榎本は、はたして時代を先どりした先駆者なのか、裏切者なのか。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
26
だいぶ前に、数十ページで挫折した思い出のある作品です。挫折した理由は、幾つか思い当たります。まず、榎本武揚が敗者である上に裏切者で、惹きつけられる魅力に欠けている。次に、作中の考察や議論が事実に基づいているかどうか、分からなくなる。さらに、それらの興味の前提に歴史の教養が必要とされている。榎本という歴史上の人物を評価する観点から読むと挫折しますが、再読では全く違う印象を持ちました。憲兵だった福地という人物の話から展開していくように、幕末と終戦が重ね合わされ、福地の実存も榎本の心境と重ね合わされています。福2018/06/19
風に吹かれて
25
1964(昭和39)年~1965(昭和40)年『中央公論』掲載。 明治維新前後は西郷隆盛が西南戦争で自死したことが象徴しているように人々の様々な想いが沸騰していた時代だと思う。榎本武揚のことは五稜郭の戦くらいしか脳裏になかったが、公房の戯曲『榎本武揚』で、反政府軍を率いていたが、その後、政府の要職を務めていたことを知った。この小説では新撰組隊士浅井十三郎の手記を中心としながら戊辰戦争の流れをたどり榎本や新撰組生方らが描かれる。➡ 2020/10/23
松本直哉
24
「身捨つるほどの祖国」など存在しない。忠誠を誓っても馬鹿を見るだけ。幕府のために最後まで戦った土方歳三も、もはや幕府の骸となったものに尽くしていたにすぎない。終わり近くの登場人物の一人の言葉「この世に政治が存在する限りに忠誠は社会の必要悪かもしれませんが、しかし出来れば、そんなものとはかかわり合いを持たずにすませたいものですね」がすべてを物語る。戦時中憲兵として忠実に任務を果たしたばかりに家族離散の辛酸を嘗めた一市民と、忠誠とは一線を画したところに身を置いていた榎本武揚の生涯が対照的。2016/08/09
高橋 橘苑
23
日本の古典や歴史に興味を感じないと語る安部公房には、異色といえる作品である。安部が共産党から除名になったのが1961年、65年の本作品は、区々たる政治的発想から逃れ、俯瞰的なアプローチで時代を捉えたといえる。憎悪の母である、忠誠を拠り所とする過去の住人達は、ユートピア伝説の彼方へと消え去った。砂漠や原野の広さを本当に知る者は、その広漠さを感じつつ、その周辺でしか生きられないことを、いつしか享受するだろう。榎本武揚・宿屋の主人・語り手の私、それぞれが安部の多面的な心情のいくばくかを代弁している様に思える。2015/05/16
しんすけ
22
本書が発表されたのは1965年。当時の書評はあまりよくはなかった。 安部公房が自己弁明のために、榎本武揚を利用したということが、商業新聞の書評にも観られた。安部公房が転向者だったからだろう。 それが奇縁で十八歳のぼくが安部公房って奇妙な名前の作家に興味を持つことになってしまった。 そこには、榎本武揚を嘲笑しつつ負けると判った戦いに挑んだ男の物語があった。 本書は敗者の美学である。 1965年からの数年を学生として過ごすことになったが、それは自身と他に対する疑いの毎日だったと、今でも思う。 2022/07/01