出版社内容情報
中島敦の小説やウィトゲンシュタインとカール・クラウスの言語論に分け入り、「生きた言葉」とはなにかを明らかにする新しい哲学!言葉が表情を失うことがある。たとえば、「今」という字をじっと見つめ続けたり、あるいは、「今、今、今、今、今、今・・・」と延々書き続けたりすると、なじみのあるはずの言葉が突然、たんなる線の寄せ集めに見えてくる。一般に、「ゲシュタルト崩壊」といわれる現象だ。
逆に、言葉が魂が入ったように表情を宿し、胸を打つようになることがある。こういう現象を、どうとらえたらいいのだろうか。魂のある言葉とは、どのようなものか。
本書は、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説からはじまる。いずれも、「ゲシュタルト崩壊」をあつかった作品である。
ついで、ウィトゲンシュタインの言語論を検証する。かれが「魂なき言語と魂ある言語」といったとき、どのような哲学が展開されるか。
そして、最後に、カール・クラウスの言語論を考える。
生涯をかけて、言語批判をつらぬいたクラウスの思想とは、どのようなものだったか。
それは、「常套句に抗する」ことで、世の中をかえようとする試みでもあった。
以上の三つの核によりそいながら、「命ある言葉」とはなにかを哲学する力作。
第1章 ヴェールとしての言葉――言語不信の諸相
1.中島敦「文字禍」とその周辺
2.ホーフマンスタール「チャンドス卿の手紙」とその周辺
第2章 魂あるものとしての言葉――ウィトゲンシュタインの言語論を中心に
1.使用・体験・理解
2.言葉の立体的理解
3.「アスペクト盲」の人は何を失うのか
第3章 かたち成すものとしての言葉――カール・クラウスの言語論が示すもの
1.クラウスによる言語「批判」
2.言葉を選び取る責任
古田 徹也[フルタ テツヤ]
著・文・その他
内容説明
言葉が表情を失うことがある。たとえば、「今」という字をじっと見つめ続けていると、文字がたんなる線の寄せ集めに見えてくる。「ゲシュタルト崩壊」といわれる現象だ。本書は、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説からはじまる。いずれも「ゲシュタルト崩壊」を扱った作品だ。そのうえで、ウィトゲンシュタインの言語論を検証し、カール・クラウスの言語論を考える。「生きた言葉」「魂ある言葉」を考える清新な哲学―。
目次
第1章 ヴェールとしての言葉―言語不信の諸相(中島敦「文字禍」とその周辺;ホーフマンスタール「チャンドス卿の手紙」とその周辺;まとめと展望)
第2章 魂あるものとしての言葉―ウィトゲンシュタインの言語論を中心に(使用・体験・理解;言葉の立体的理解;「アスペクト盲」の人は何を失うのか;「言葉は生活の流れなかではじめて意味をもつ」)
第3章 かたち成すものとしての言葉―カール・クラウスの言語論が示すもの(クラウスによる言語「批判」;言葉を選び取る責任)
著者等紹介
古田徹也[フルタテツヤ]
1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学准教授を経て、専修大学准教授。専攻は、哲学・倫理学。「言語」「心」「行為」を手がかりに研究を進める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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ころこ
くまさん
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原玉幸子
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