内容説明
残虐な事件が起こるたび、その“悪”をめぐる評論が喧しい。しかし、“悪”を指弾する人々自身は、“悪”とはまったく無縁なのだろうか。そもそも人間にとって“悪”とは何なのか。人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。本書では、さまざまな文学作品や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を“悪”の側面から読み解く。
目次
第1章 「道徳的善さ」とは何か
第2章 自己愛
第3章 嘘
第4章 この世の掟との闘争
第5章 意志の自律と悪への自由
第6章 文化の悪徳
第7章 根本悪
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
i-miya
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2013.04.22(初読)中島義道著。 2013.04.22 (カバー) 残虐事件-「悪」をめぐる評論、喧しい。 「悪」を指弾する人自身の悪はどうか。 そもそも「悪」とは。 人の欲望を見据え、「悪」と取り組むカント。 カント倫理学を「悪」から読む。 (中島義道) 1946、福岡生まれ。 1977、東京大学大学院人文科学研究科修士修了、1983、ウィーン大学哲学博士。 (あとがき) 二十五年前、ウィーン、どうしよう、どうしよう、と・・・。 ベリヴェデーレ宮殿の庭園のベンチでカント『純粋理性批判』を読む。 2013/04/22
i-miya
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2013.04.29(つづき)中島義道著。 2013.04.29 ◎善意志。 カントは、善の内容、すなわち、いかなるものが善であるかを提示しようとはしない=カント倫理学の本質。 次に、その正確な意味を盛り込もう。 『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)以下『基礎づけ』という。 この世界は、どこであろうと、いや、この世界以外でも無制限に善とみなしうるのは、善意志以外全く考えられない。『善意志』とは、「善いことをしよう」という思い-一定の心理状態ではない。 2013/04/29
i-miya
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2013.05.10(つづき)中島義道著。 2013.05.08-2 カント、『基礎づけ』、『実践理性批判』において、定言命法を様々に定式化しているが、つまるところ次の2点である、(1)きみの意志の格律が常に、同時に普遍的立法の原理として、妥当しうるよう行為せよ、(2)きみ自身の人格における、また他の全ての人格における人間性を常に、同時に目的として使い、決して手段として使わないように行為せよ。 2013/05/10
i-miya
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2013.04.26(つづき)中島義道著。 2013.04.24 カント倫理学にたいする拒絶反応はなくなった。 (はじめに) 幼児虐待。 あたかも自分はこういう悪とは全く無縁。 安全地帯にいるかのようである。 自分の中に悪を見ようとしない彼らは有罪である。 ここ数十年、自分自身をはじめ、誰一人として「善くはない」という鮮明な直観に支配されている。 2013/04/26
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2013.05.06(つづき)中島義道著。 2013.05.06 ◎道徳法則と定言命法。 カントは「道徳的に善い行為」=義務からの行為の客観的妥当性を確立しようとした。 ※客観的妥当性=「自然科学の法則のように、いつでも、どこでも、どんな場合でも必然的かつ普遍的に妥当しなければならない」という意味。 カントは、ここで、「道徳法則」という名前を採用した。 ※「法則」=「必然的かつ普遍的に妥当するという性格を含意いている」からである。 2013/05/06