別世界との出会い
ビルマ商人の日本訪問記

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  • サイズ A5判/ページ数 238p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784897722269
  • NDC分類 291.09
  • Cコード C0026

内容説明

1936年、ビルマから青年実業家が日本にやってきた。英植民地下の故国の読者に熱い思いで伝えた昭和初期日本の実像。日本の何を学ぼうとし、何を嫌ったのか…。

目次

第1章 ビルマから日本へ
第2章 台湾、上海、神戸、大阪
第3章 浜松、静岡、東京、横浜、名古屋
第4章 日本人とビルマ人
第5章 日本に学ぶ
第6章 仏像を寄進する
終章 帰路

著者等紹介

フラ,ウ[フラ,ウ]
ビルマ人仏教徒。1900年9月、ビルマ、プローム(ピィエ)県シュエダウン市に生れる。1914年3月、プローム(ピィエ)市の公立英語・ビルマ語学校を卒業。その後上級学校には進学せず、四年ばかり私塾で英語のみ学習。傍らシュエダウン市で父親の経営する事業を手伝いながら、絹布、綿布、米等の取引を経験。二十二歳の時、事業拡張のため試験的にラングーンへ出る。二十四歳の時(1924年)政府の認可を受け、綿糸取引のため、陸路タイへ赴く。三十五歳頃までにラングーンの支店責任者となり、事業の拡大発展をめざして貿易実務視察のため日本訪問。父親の老齢引退後は実弟ウ・タン・マウンを助手として、二人共同で父の事業の一切を引き継ぐ。第二次大戦中は実業活動を停止し、反英独立運動の指導者アウン・サン将軍の下で、その指示に従って随時社会奉仕にたずさわった。大戦後、ビルマ独立(1948年)の前夜には、アウン・サン将軍率いるAFPEL(反ファシスト人民自由連盟)(大戦後の有力政党)治世下で、ソロントプラントと呼ばれたビルマ再建計画にも参画。1957年、58年頃より著しく健康を害ね、一切の実業及び社会活動から引退。1963年4月、六十三歳で高血圧と心臓疾患のため死去

土橋泰子[ドバシヤスコ]
大阪市生まれ。大阪外国語大学ビルマ語学科在学中ビルマ政府招聘留学生としてラングーン大学文学部に留学。大阪外国語大学ビルマ語学科卒業後、同大学専攻科(ビルマ語)修了(修士)。1960~1964年、外務省アジア局南西アジア課ビルマ班勤務。1964~1974年、夫のニューヨーク転勤に伴い在米生活。1975~81年、NHK国際放送ビルマ向け番組「やさしい日本語」講師。1978年から外務省研修所ビルマ語講師(非常勤)(現職)。1983~1998年、東京外国語大学ビルマ語科講師(非常勤)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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