出版社内容情報
朝霞、戦前は軍都、戦後は基地の街だった。戦後の復興をささえた基地の姿を、そこに暮した人々をたずね、資料からあきらかにする。一教師が丹念に調べた朝霞の占領時代史。
目次から
一、ゴルフ場から「軍都」へ
1、「上海」と朝香宮鳩彦
2、朝霞と陸軍予科士官学校
二、「軍都」から「基地の町」へ
1、敗戦直後の朝霞と占領軍進駐
2、占領軍「慰安婦」
3、「日本の上海」と呼ばれた「基地の町」
三、基地文化と「混血児」と戦後教育
1、 基地文化
2、「混血児」
3、戦後民主教育とレッド・パージ
4、「基地の子」と学校教育
一九八一(昭和五六)年に朝霞市内の公立中学校教員に赴任してから、戦争と平和は私の研究テーマであり、教育実践の主要なテーマであった。「戦争をどう教えるか」は私にとっての課題であった。戦後五〇年を過ぎてからは、「戦後をどう教えるか」がもうひとつの課題となった。「もはや戦後ではない」(『一九五六年経済白書』)といわれた年に生まれた私たちの少年時代は、淀橋浄水場跡地(現在の新宿副都心)が超高層ビル群に生まれ変わる時代に重なった。高校入学の年には「日本列島改造論」の田中角栄首相が誕生(一九七二年)し、「いけいけどんどん」の絶頂期を迎え、その翌年石油ショックが日本経済を直撃し高度経済成長は終焉を迎えた。私たちは高度経済成長の落とし子世代であった。しかし、大人には戦争体験者がおおぜいいた。
一九五一(昭和二六)年九月八日にサンフランシスコ講和条約が調印され、日米安全保障条約も同日ひっそりと調印された。翌年の一九五二(昭和二七)年四月二八日、占領は形の上では終止符が打たれ日本は独立を回復した。現在にもつながる基本的な諸制度や、日米同盟と言われる日米関係が形成された占領時代は、「戦後」の日本の原点であった。
戦後五〇年が経ち、戦争はおろか占領時代を知る人も少なくなった。私は占領時代史の掘り起こしの必要性を痛感することになった。聞き取り作業を進めるなかで日本の片隅にあって「基地の街」と呼ばれた朝霞の占領時代とそれにつづく「戦後」の歴史の一つひとつに、日本と世界をそして今の時代を考えさせるヒントが散りばめられていたことがわかってきた。それらを若い人たちにも伝えたいと強く願うようになった。
(あとがきより)
内容説明
1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印され、日米安全保障条約も同日ひっそりと調印された。翌年の52年4月28日、占領は形の上では終止符が打たれ日本は独立を回復した。現在にもつながる基本的な諸制度や、日米同盟と言われる日米関係が形成された占領時代は、「戦後」の日本の原点であった。―「北の父」事件など、レッド・パージの時代に民主教育の実現のためにたたかった教師たちの姿をききがきから明らかにする。
目次
1 ゴルフ場から「軍都」へ(「上海」と朝香宮鳩彦;朝霞と陸軍予科士官学校)
2 「軍都」から「基地の街」へ(敗戦直後の朝霞と占領軍進駐;占領軍「慰安婦」;「日本の上海」と呼ばれた「基地の街」)
3 基地文化と「混血児」と戦後教育(基地文化;「混血児」;戦後民主教育とレッド・パージ)
著者等紹介
中條克俊[チュウジョウカツトシ]
1956年東京生まれ。埼玉大学経済学部経済学科(鎌倉孝夫ゼミナール)卒業。1981年より埼玉県公立中学校教員(社会科)。歴史教育者協議会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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