内容説明
からだは、自分と世界とがふれる境界線だ。そこに必死になって生きようとしながら、閉ざされ、病み、ゆがむ“からだ”…。幼時に耳を病んだ著者が、どのようにして“こえ”と“ことば”を回復し、自分と世界とのふれ合いを、また、人間関係のダイナミズムをとり戻していったか―。長く苦しい努力の過程を語りつつ、人間の生き方の根底を照らし出すユニークな一冊。
目次
凍っていたノド
からだとことば
ことばとの出会い(失われたことば;発語への身悶え;物語と音への目覚め;師・岡倉士朗との出会い)
からだとの出会い(解体することば;演技=行動するからだ;弓の修行から;こえとの出会い;話しかけのレッスン)
治癒としてのレッスン(竹内演劇教室のはじまり;「ふれる」ということ―Sの場合;引き裂かれたからだ―Nの場合;対人恐怖について―WとMの場合;自閉症児とのふれあい―ひろし君の場合;現代社会とこえの歪み;明示性と含意性の統一)
からだそだて(「からだ」を吟味する;「体育」を「からだそだて」と読む;姿勢について;「からだ」としてのことば;「からだそだて」の観点から見た全教科のパースペクティブ〔ほか〕)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
おたま
41
竹内敏晴のレッスンには一度だけ参加したことがある。それはからだほぐしであったり、語り掛けであったり、からだとことばが一体のものであり、それが総体として他者に働きかけていくことを感じさせてくれた。そう、ことばはからだの行動の一部であり、他者への働きかけの一部である。また、ことばがうまく他者に伝わらないとき、からだのどこかに歪みが生じていたり、無理をしていたりする。からだをゆるめて解放したときに、ことばも解放され、行動も解放される。そうした一貫した事態をこの本は具体に則して知らせてくれる。2023/05/25
kawa
34
演技レッスンを「うまい芝居の技術」目的とするのではなく「見知らぬ自分に合うこと」と意味付けする。そしてその関心は「人と人とが声やことばを本当には交わ合せるには」と言う問題に展開。演劇だけでなく、教育現場におけるコミュニュケ―ション手法までをカバーする「竹内レッスン」として発展させた演出家の筆者の自伝的著作。一読で理解できるほど簡単ではないが、「人のからだの感じを自分のからだのことのように感じる力に長けていたという」(ウィキ)著者の、自己・他者の関係性の見方が興味深い。鴻上 尚史氏の著書で本書を知る。2023/03/29
ちくわ
20
耳の疾患のせいで物心ついてから言葉を苦しんで身につけた筆者だからこそ語れる、言語表現のメカニズムは非常に興味深いです。スラスラ話すことが重要視される今こそ、湧き出てくるけどうまく語れない部分を、聞く・話ことを大切にしたいです。(☆4)2023/11/07
ネムル
19
ここ数ヵ月難聴に悩まされているもので、そこから脱するヒントでもなかろうかとあさはかな考えから読み始めたが、それはそれとて非常に面白い。メルロ・ポンティの思想と自身の障害経験を基に、野口体操から平田オリザや、はたまた諏訪哲史などに至るような身体論・コミュニケーション論・教育論・話し言葉としての日本語論など射程の広い本である。特に心身二元論を越えたところで、身の歪みが如何にことばに影響を与えるかなど、具体性に富んでいる。耳を不自由にした代わりに、目や身のあり方が劈かれるような経験をしたのだろうか。2018/04/15
SGM
14
★☆☆文章がきめ細やかな感じがして、自叙伝+哲学書を読んでいるよう。たしかになんとなく面白いのだけど、意味がよく理解できなかった。