目次
1 文学と教育の背馳と一致(教室で文学を読むとはどういうことか;文学教育と「これからの民主主義」の創造)
2 近代小説の“価値”を生かす教材論、状況と切り結ぶ実践論を求めて(「“語り”を読む」ことと「自己を問う」こと―芥川龍之介『蜘蛛の糸』の教材価値を再検討する;状況に切り込む文学教育―森鴎外『高瀬舟』をめぐって;井伏鱒二『山椒魚』の“語り”を読む―「嘲笑」と「岩屋」をめぐって)
著者等紹介
齋藤知也[サイトウトモヤ]
1964年生まれ。金沢大学法学科、富山大学語学文学科(国語国文学)卒業。私立中・高等学校、公立中学校勤務を経て、1996年4月より、自由の森学園中・高等学校教諭、今日に至る。また現在、立教大学兼任講師を兼務している。日本文学協会、全国大学国語教育学会、日本国語教育学会、日本近代文学会に所属(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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しおた
2
自分の問題意識と、齋藤先生の葛藤が重なり合っており、非常に興味深く読み終えた。第1、2章の解説はまだよく理解できていないが、それを実践として落とし込むとこうなるのか、と目から鱗。「度量衡」(ものさし)を問うということは、現在の自らの「度量衡」(ものさし)では計れないものがあるという「感覚」を、「わがもの」にするということとも言える。そのような「感覚」をもちえた時に、わたしたちも含めた学び手は、「自らのものとは決定的に異質な度量衡(ものさし)」への志向性をかろうじて有することができる。という言葉が真理だ。
k.ichihara
2
本書は「正解到達主義」と、その批判から生まれた「エセ価値相対主義」のどちらにも疑問を呈する。そして、田中実の「第三項」と「語り」の理論を元に、テクストの読みをを「私のなかの他者」の問題として、それを原文と付き合わせて問い直していく営みを実践している。 こういう理論を元ととした実践の記録は参考になるし、いろいろな挑戦にむけて勇気を与えてくれる。2018/06/09
おこぼれ太郎
1
再読。教員1年目のとき「この本は今、読まねば、読み込まなければ、子どもの前に<先生>として立てない気がする」と感じ、貪るように読んだ。構造主義の登場以降、もはや常套句となってしまった「人それぞれ」という言葉に翻弄され、教室で文学を読むということの原理的な価値と格闘せざるを得ない国語教員として、いかに授業を創り上げていくべきか、筆者の息づかいが感じられるような書きぶりで綴られている。文学の可能性、国語教育の可能性、そして、生徒の可能性をいかに引き出し、受け止めるのか。切迫した思いで読んだことを思い出す。2021/02/04
エイジ
1
長野県国語国文学会にて紹介された1冊。是非「語り手」の視点をもって文学教材を扱いたいと感じましたね。2013/04/03
nyamo
0
個、自由 、多様性の原理を踏まえて〈共有されるべき価値〉や〈公共性〉を模索するためには、〈わたしのなかの他者〉の問題を見つめる必要があると考え、〈語り手〉と登場人物の相関を読む文学の授業を追求している。「蜘蛛の糸」「高瀬舟」「山椒魚」の実践記録。 何のために、皆で同じ作品を読む必要があるのか。考えていきたい。2019/02/12