講談社選書メチエ<br> 小津安二郎の喜び

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講談社選書メチエ
小津安二郎の喜び

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  • サイズ B6判/ページ数 320p/高さ 19cm
  • 商品コード 9784062586207
  • NDC分類 778.21
  • Cコード C0374

出版社内容情報

日本映画史に金字塔を打ち立てた小津の現存する全作品を一貫した視線の下に読み解く喜び。小津映画だけがなしえた驚異の地平!「小津安二郎の映画ほど、それについて考えることを誘いかけるものは珍しい」──本書は、冒頭にそう記す著者が小津映画に捧げてきた思いのすべてを解き放った待望の集大成である。
小津安二郎(1903-63年)は、昭和2年のデビューから死の前年に至るまで、日本映画史に燦然と輝く作品を生み出し続けた。散逸したものを除いた現存作品は全37作に及ぶ。本書は、現存する最初の作品『学生ロマンス 若き日』(昭和4年)から遺作『秋刀魚の味』(昭和37年)に至る全作品を一貫したまなざしの下に読み解く。
そのまなざしとは、小津作品だけが達成しえた、映画の本性への愚直なまでの忠実さを個々の作品に見るものにほかならない。キャメラという人間の身体とは根底から異なる「知覚機械」だけが捉えられるのは、私たちが身を置いている現実生活の行動から隔絶した〈永遠の現在〉である。小津映画に特徴的な「ロー・ポジション」での撮影も、その事実に深く関わっている。
『学生ロマンス 若き日』においてすでに確認できる〈神の眼〉で見られた物が帯びる〈永遠の現在〉は、若き日の小津が感化されたアメリカ映画の影響を感じさせる『朗かに歩め』(昭和5年)、『その夜の妻』(同年)、『非常線の女』(昭和8年)といったギャング映画にも、『出来ごころ』(昭和8年)、『浮草物語』(昭和9年)、『東京の宿』(昭和10年)といった「喜八もの」にも顕著に認められる。それは『鏡獅子』(昭和11年)で訪れるサイレントからトーキーへの転換を越え、さらには戦後『彼岸花』(昭和33年)で訪れる白黒からカラーへの転換をも越えて、小津作品を貫いていく。
小津映画について論じた書物はあまたあれど、こうした事実が指摘されたことも、これほどまでに一貫したまなざしの下に全作品が提示されたこともなかったことは間違いない。本書は、映画を愛するすべての人に贈る渾身の1冊である。

まえがき
 第I部 喜劇の静けさ
第1章 映画が滑稽であること
第2章 微笑の道徳
第3章 無力であること
第4章 流れ歩く人たち
 第II部 低く、水平に視ること
第5章 なぜロー・ポジションなのか
第6章 サイレントからトーキーへ
第7章 映画と声
第8章 〈在るもの〉としての深さ
 第III部 不易を観る方法
第9章 世相と不易
第10章 映画と変わらないもの
第11章 豆腐とガンモドキの間
第12章 東京に生きる
 第IV部 色彩映画、至純の華やぎ
第13章 色彩喜劇の創造
第14章 豊潤の極みへ
第15章 死を養う色
終 章 小津安二郎は、何を撮り、何を語ったのか
文献一覧
あとがき
小津安二郎全作品一覧


前田 英樹[マエダ ヒデキ]
著・文・その他

内容説明

日本映画史に燦然と輝く名匠・小津安二郎(一九〇三‐六三年)。現存する最古の作品『学生ロマンス若き日』(昭和四年)から遺作となった『秋刀魚の味』(昭和三十七年)まで、今日観ることのできる全三十七作品を貫くものは何か。キャメラという知覚機械の本性を深く理解した小津は、サイレントからトーキーへの移行を越え、白黒からカラーへの転換をも越えて、私たちが生きる現実生活の根底に潜む“永遠の現在”を捉える。小津を愛する著者が共感に満ちた筆致で完成した集大成。

目次

第1部 喜劇の静けさ(映画が滑稽であること;微笑の道徳;無力であること;流れ歩く人たち)
第2部 低く、水平に視ること(なぜロー・ポジションなのか;サイレントからトーキーへ;映画と声;“在るもの”としての深さ)
第3部 不易を観る方法(世相と不易;映画と変わらないもの;豆腐とガンモドキの間;東京に生きる)
第4部 色彩映画、至純の華やぎ(色彩喜劇の創造;豊潤の極みへ;死を養う色)
小津安二郎は、何を撮り、何を語ったのか

著者等紹介

前田英樹[マエダヒデキ]
1951年、大阪府生まれ。批評家・立教大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

踊る猫

29
しなやかな小津論だと思った。人は生き、老いて死ぬ。しかし後の世代になにかを託し、その後の世代も老いる。その繰り返し。著者は植物的/動物的という対立項を入れて映画を分析する(東浩紀とは関係ないので、念の為に)。小津の映画は確かにガツガツした動物的な野心を持つ人間はなかなか登場しない。するとしたら相当な俗物としてだろう。むろん野心が皆無な人間など居ないわけだが、植物的に「欲を言えばきりがない」と諦観を生きているのが本当ではないか。そんな小津の世界を愛し、論理的でありながらマッチョな読みや断定をしない姿勢がある2021/03/10

踊る猫

23
手堅い小津安二郎論だ。この著者は身体感覚に目を配り、かつ哲学的とも言える思弁を駆使して(ドゥルーズを引きつつ)小津の世界に肉薄する。小津が「植物的」な資質を備えていたこと、つまりガツガツした物理的/俗物的欲求に走らず退屈と言える日々の繰り返しに喜びを見出していたことが指摘され、それはすなわち小津を愛する人々の価値観/人生観ともリンクして余韻を残すのではないか。私たちもまた「植物的」に生きることができ、小津のように生きることができるというように……悪く言えばそうした真っ当さが癖のなさと表裏一体を為すところか2022/03/25

amanon

6
小津の映画を見る喜び…何度目にしても、その何気ない場面が思いもよらなかった美をもたらすということへの驚き。そして、それを語らずにはおれなくなるという恐らく他の映画には成し得ない喚起力を改めて認識。そして文章を通して、自分が見た映画を追体験することにも何とも言えない味わいがあることも。ところで、本書で繰り返される小津の映画に通底する農耕民族的な傾向というのは、若干眉唾ではあるけれど、熟考に価する見解だと思う。また、同じ仏系である蓮實の小津論への言及が全くないというのが、逆に蓮實への意識を暗示している気が…2019/01/25

田中峰和

2
昭和二年、23歳のとき「懺悔の刃」で映画監督の道に入った小津は生涯で50数本の作品を残した。この時代劇に違和感をもった小津は松竹の要請した7本の企画を断り、翌年には6本のドタバタ喜劇を監督。笑いの天分に根差した初期作品はアメリカ映画の影響を受けていた。ロー・ポジション撮影を特徴とする小津の作品は、日本人固有の畳の暮らしを意識したものとされるがそれだけではない。他人より高い位置から俯瞰する位置に立つことは、人より優位に立とうとする狩猟民の視点。稲作民の視点であり、畳の上で暮らす視点ではない。深い読みである。2016/04/09

Isamash

0
全作品を論じ、作者である前田英樹・立教大学教授の小津監督映画への情熱的愛は感じた。 ただ、映像の二面性を強く主張していいるが、具体的な細部までは述べられておらず、十分に理解納得できなかった。 ローアングルに関しては、上から目線でない視点という観点で語られているが、分かった様で分からなく、スッキリとはしなかった。 せっかく個別映画について述べているので、挿入カット映像とうの謎解きの様な部分も欲しかった。2020/11/08

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