内容説明
思考の発生と運動を、非人称かつ詩的な言葉で刻みつけ、天才の登場を鮮烈に告げた記念碑的作品。哲学の巫女・池田晶子の仕事はここに始まる。
目次
序 哲学への開放―「知識人」批判から
1 事象そのものへ!(存在の律動―論理;清冽なる詐術―詩;未知への帰還―科学;変幻と貫くもの―心理;発現する消失点―神)
2 応用篇(非‐女権思想論;禅についての禅的考察)
著者等紹介
池田晶子[イケダアキコ]
1960年(昭和35年)8月21日、東京生まれ。1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。文筆家と自称する。池田某とも。「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。2007年(平成19年)2月23日死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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Gotoran
47
専門知識や用語に頼らず、日常の言葉で“哲学するとはどういうことか”を述べ、安易に時流に迎合することなく、鋭い感性に根ざした自分の考えと言葉で思惟したと云う、早逝した著者。タイトルは、現象学の唱導者フッサールの合言葉とのこと。本書は、20代の若き著者の詩的な言葉で綴られた哲学エッセイ。テーマは、「知識人」批判から宇宙と人間、生と死、神、科学、詩など。最後の(ホーキング、西脇順三郎、ヴィトゲンシュタイン、小林秀雄を引合いに出しての)「禅についての禅的考察」が圧巻、大いに知的好奇心が擽られた。2015/12/26
Tenouji
10
ある/ない、との間に関する論考を、鋭い言葉で切って埋めていくような、池田氏の熱い思弁的な語り。ただ、これも時代なのだろうか、二項対立させて、その間を、グレーなものとして表現するのではなく、対立の詳細を描写するかのごとく、過剰な言葉で埋めようとするスタイル自体が、そもそも西洋的なのかもしれないですね。池田氏自身は、そういうことを一切望んではいないようなのだけれども。しかも、今や、「ない」は、なかったことにされそうな時代ですけど。2018/04/14
solaris
5
意外に初読。処女作「埴谷雄高、最後から一番目の読者論」の次の著作らしい。1987年文藝掲載、著者27歳。池田晶子の「本気」を見た。参考文献リストの量からして情報量の莫大さは感じるが、変幻自在な思考の運動量を感じ、読後疲れる。読者は著述の10分の1の時間/労力で足りると言われるが、恐れ入った。読中「これは…」と何度も唸る、光る言霊が随所にある。「私は、私だ」と問う根源的な神的存在、意味の根源である言霊。一部の存在の律動、清冽な詐術といったタイトリング・センスも舌を巻く。2023/04/29
tunehiro
5
一貫して「存在」と「非存在」について述べていた、池田晶子の極めて歯ごたえのある初期論考2010/03/31
史
3
池田晶子先生の最初期の作品。あまりこの先生らしいものは薄いか。2023/04/12