内容説明
社会学また社会科学は、自然科学が自然現象を扱う場合のように、「社会」という対象を客観的に分析することができるのか。個々に主観的存在である人間から成る社会を、なぜ客観的な全体性として認識することができるのか。この学の存立に関わる根源的問題を、二人の先駆者の人間、社会及び社会学への追究・理解の過程と到達点から検証するとともに、その限界を超えて、失われつつある生の意味の回復に至る方途を展望する。
目次
第1章 アレクシス・ドゥ・トクヴィル(生い立ち―家庭的背景から最初の懐疑へ;新大陸アメリカ―神の摂理、知的道徳的世界、権威;二月革命―社会主義とその対決:人民と人間;二月革命以後―「人間」と「社会」の誕生;死、信仰、そして生の意味)
第2章 エミール・デュルケーム(第三共和制;客観的科学としての社会学;生の意味喪失―自己本位的自殺;ドレフュス事件;知的共通性あるいは論理的調和性;道徳的共通性あるいは道徳的調和性)
第3章 結論(トクヴィル‐デュルケームの到達点;社会学的人間観/社会観の拡張―「社会」から「世界」への回帰;社会学の次段階―超越への経験科学的アプローチ:「主観‐客観」から「経験の全体」へ、そして生の意味)
著者等紹介
菊谷和宏[キクタニカズヒロ]
1969年愛知県名古屋市生まれ。1991年一橋大学社会学部卒業。1998年一橋大学大学院社会学研究科単位取得退学。2004年博士号取得(社会学)。和歌山大学経済学部助教授
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感想・レビュー
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Seiichiro Yamamoto
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トクヴィル、デュルケームの思想を当時の歴史的制約という観点で相対化し、その限界を批判しようとした試み。「社会=可感的な物の総体としての世俗世界」という定式化が社会学の前提にあるということを自分の中で明確化できた点ではよかった。本文中でも若干の指摘があったが、社会において個人の同質性を前提としようとすること自体がキリスト教という西洋の宗教的特性の帰結であると立証できれば、その裏返しとして「他者との異質性に寛容な社会」としての日本社会を描けるかもしれない。もちろん、そのような結論が導ける確信はどこにもないが。2012/08/15