• ポイントキャンペーン

21世紀の音楽入門 〈3〉

  • ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません。
  • 商品コード 9784877882099
  • Cコード C3073

出版社内容情報

※13人の著者陣の内容を掲載順にほんの一部転載しました。

ここで強調しておきたいのは、まず「通常の話し言葉」というかたちがあって、そこから考え始めるということです。言葉を話している状態とうたをうたう状態とでは身体的にも違うし、はっきり区別するべきだと言う方もいるでしょう。確かに区別はするのです。ただ、いまも記したように、「通常の話し言葉」からの偏差から考えてみたいと言ったらいいでしょうか。いわゆる「うた」の方面から考えていったら、口ずさみなどは「うた」ではないし、音楽とは関係がないとみなされてしまうかもしれません。でも、口ずさみも紛れもなくひとつの声だし、音楽となる、いや音楽になりかけている行為です。
〔小沼純一 声から世界へ より〕

いつ頃から、どこでカストラートが現れたのかは明らかでない。1562年にローマ教皇の聖歌隊に入った神父がスペイン出身のファルセット歌手と記録されているが、最初期のカストラートだったという説もある。それが真実だとすれば、日本から派遣された天正遣欧使節は、1585年 のローマ滞在中に、新旧2代の教皇の葬儀と戴冠式のミサでカストラートの声を聞いたことになる。少なくとも、30年後に支倉常長がローマに到着した時、教皇の聖歌隊にイタリア人のカストラートがいたことは確かである。
〔関根敏子 カウンターテナーの声 より〕
《オテロ》は完璧なオペラである。何が完璧か。「歌」と「ドラマ」とが緊密に連動しあっている点で、空前絶後なのだ。ここには無駄な音はひとつもない。すべてが、何かを表現する。序曲代わりの冒頭の合唱は、初めの一音からドラマへ突入し、戦勝祝いの祝宴の場は、同時に陰謀の独白の場となる。嫉妬のあまりの主人公の錯乱は、彼をまだ英雄と信じる人々の歓呼のなかで演じられ、その没落を効果的に映し出す。悪人には不協和音が、清純な美女の祈りの言葉にはあえかな弦の響きが、それぞれ割り当てられる。言葉に応じ、時に言葉以上に、人物の心理を描き出す音楽。「音楽」が「劇」と一体になるとき、それがいかに雄弁になるかを、《オテロ》は余すところなく示してくれる。音楽と劇との間を揺れ動いていた振り子は、ひとつの到達点にたどりついたのだ。
〔加藤浩子 「声」と「ドラマ」がせめぎあう時―イタリア・オペラ小史― より〕
オペラに関する研究から、しかしながら、ごっそりと抜け落ちているのは、オペラを見るときに、我々が本来感じる身体的な快感への問いである。そもそも、ひとは何故にオペラを喜んで見るのかという問題は、右にあげたどの極からも説明づけられない。・・(中略)・・為政者がなにを企もうと、国家がなにを画策しようとも、実際にオペラ上演の現場に居合わせた際の快感は、実のところいささかも損なわれるものではあるまい。むしろ、そうした権力や圧力の横をするりと通り抜け、むしろそれによって水面下で蓄積・増殖されてゆく過剰な欲望とその解放、享楽こそが、オペラを語る上では必須のことなのである。
〔長木誠司 オペラの声,オペラからの声 より〕
まさに声は肺から気管へ、そして声帯へと流れ込み、口蓋を通って舌や唇で変容した息を生々しくよみがえらせる。概念の操作を経ず、直接、身体から身体へと語りかける声が、他者との回路としての音楽を求めたベリオにとって、最強の媒体だったことは容易に想像できる。しかも、これまでみてきたとおり、「声」とは単に人間の発する声だけではない。楽器や電子音もまた、優れて他者との距離を踏破する「声」であった。そこにも、わたしたちは音素材として去勢された音ではなく、身体性をそなえた揺らぎ、ざわめきを聴くことができる。
〔白石美雪 「声」をめぐる謎―ルチアーノ・ベリオの音楽 より〕
音楽を「音楽」とする諸要素―すなわち音の質、息づかい、身振り、テンポのニュアンス―が声から導き出されることを観察してきた。それは音楽にとっての「自然」の開示でもあった。だからこそ、「音楽的」であるためには、まず「声に還れ」といわなければならないだろう。このことは器楽はいうまでもなく、声楽にさえも妥当する。というのは、すでに述べたように、音楽は「自然」に反したような表現をねらう場合が少なくないからである。しかし、そのことを知るためにも、「声に還る」ことが基本となるのである。
〔田村和紀夫 声,魂の共鳴―「音楽」を声に求めて― より〕
神・貴人と鬼は、聖と邪という正反対の性格を付与されていたのに、出現するときは大音声を前ぶれとする、という共通性を古くから持っていたようなのだ。両者とも異界の者、という理解があったらしい。「異界を呼ぶ声」は、その後さまざまに手段を変えて芸能の中で展開していくことになるのだが、ここでは簡単にその流れを追ってみることとしたい。
〔高桑いづみ 異界からの声・異界を呼ぶ声 より〕
曲はまず、ゆっくりとした前弾き(楽器だけで演奏する前奏)で始まる。そしてトンチンシャンと前弾きが終わると、楽器の伴奏なく「世の中に」と歌い出す。実際には「世の中」の「か」の部分を引き延ばして歌う。ただ漫然と「か」の音を延ばすのではない。「よのなかァァァァァァァァに」というように、「か」の母音である「ア」を繰り返しながら、音高を巧みに上下させて歌う。さて、この部分を聴いている途中で、ある人が手洗いに中座した。ところが、戻ってきても、まだ「アアア」と続いていたという。この部分が、いかにたっぷりと歌われていたかを伝えるエピソードである。
〔野川美穂子 母音の響きを生かして―地歌の声の世界 より〕
(引用者注/文楽の)舞台上手の床で演奏される義太夫節は、語り物音楽を代表する三味線音楽であり、この義太夫節の太夫の語りが木偶の人形に魂を吹き込むのだ。今は「文楽を見に行く」というのが一般的だが、以前は「文楽を聴きに行く」という表現が普通に使われていた。つまり、人形芝居は見に行くものではなく聴きに行くものだったのである。
 観客は劇場に足を運び一体何を聴いたのだろう。彼らは太夫が語る情(人情・情景)を聴き、三味線が弾く模様(心情・情景・背景などを音だけで表現すること)を聴いたのである。
〔垣内幸夫 義太夫節の声 より〕
統合失調症の人が聴く「影の声=幻聴(現実には存在しない何者かの声がする)」や、比叡山の修行僧などから聴く、修行中の人間の精神と体の限界の中で、意識が変容してゆくときに聴こえる幻聴の話などのように、物理的には音として存在しないのに、人に聴こえてくる「声」というものがある。そういうときに使われる「声」とは、その「声」によって人が何らかの反応を示す原因となるもの、人に影響を与える力を持っているもの、ということである。反対に言えば「音」は聴いても心に影響を与えなかったが、「声」は与えたということ。その人に聴こえる限り、「声」は音響として空気が振動しなくても存在するのだ。
〔桜井真樹子 古代人の「声」―現代に息づくその力 より〕
合唱を含む声(歌声)の活動の利点としては、自分の身体ひとつさえあれば、いつでもどこででも参加できる容易さが挙げられる。                    
学校内の活動で言えば音楽室だけでなくクラス・ルームでも、また学校の外であっても野でも山でも、複数の人間がいれば歌声を響かせることができるのである。そして、学校生活の合唱体験で得た表現能力は、社会人になっても、広められるものだ。そのためにも学校教育の中で充実した歌唱力を身に付けることには大きな意義がある。
〔石澤眞紀夫 声(歌声)についての私見 より〕
音楽のジャンルにもよるが、日本武道館のステージに立つヴォーカリストにとって、マイクロフォンはもはや必須のアイテムだと断言できる。マイクロフォンを使わない生の声で、エレキギターやドラムが放つ大音響に太刀打ちできるはずがない。
音楽の多様化が甚だしい現代では、マイクロフォンがなければ成り立たない音楽もあるのだ。また一方で、マイクロフォンがあったからこそ発展してきた音楽もあり、マイクロフォンを含む音響テクノロジーが、音楽文化の変遷に大きな影響を与え続けてきた事実は否めない。
〔平田亜矢 音楽とテクノロジー・ より〕
人間のアイデンティティとは何か」という問いについて、さまざまな領域で古くから論じられている。道具を使うことであるという意見もあったが、人以外でも霊長類のあるものは道具を上手に使うことが知られている。チンパンジーに見られる蟻釣りの行動などがそれである。ホモ・ルーデンスなどといって、遊びこそが人を人たらしめている行動であるという意見もあるが、最近になってカラスにも遊びとしか思えないような行動が観察されたという報告がある。音声言語医学を専門としている筆者は、声を使った言語、つまり音声言語が操れるのが人間であるといいたい。
〔新美成二 声の出る仕組み より〕

このページのトップに戻る