内容説明
在日朝鮮人の視点から「ことば」と「記憶」を論じ、きびしく問いかける「植民地支配責任」。その声は、“宗主国国民”に届くのか。
目次
1 植民地主義の暴力(ある在日朝鮮人の肖像;怪物の影―「小松川事件」と表象の暴力;和解という名の暴力―朴裕河『和解のために』批判)
2 ことばの檻(断絶の世紀の言語経験―レーヴィ、アメリー、そしてツェラーン;母語という暴力―尹東柱を手がかりに考える;ソウルで『由煕』を読む―李良枝とのニアミス ほか)
3 記憶の闘い(「太陽の男たち」が問いかける、「私たち」とは誰か?;記憶の闘い―東京とソウルで読むプリーモ・レーヴィ;道徳性をめぐる闘争―ホー・チミンと「革命的単純さ」)
著者等紹介
徐京植[ソキョンシク]
1951年京都市に生まれる。早稲田大学第一文学部(フランス文学専攻)卒業。現在、東京経済大学現代法学部教員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ゆるこ
2
読むのに一苦労した。日本で、マジョリティーとして何不自由なく生まれ育った私にとって、日本社会への痛烈な批判を読むのは気分が良いものではないから。 ガザ侵攻の最中でなかったら、途中で放り出していたかもしれない。 知っていて当然のことを私は知らず、出会えていたはずなのに私は誰とも出会おうとしてこなかった。自分にとって都合の悪いことは、これほどまでに見えないものなのか、ということを思い知った。 こんな自分に今のイスラエルを責める資格などないのかもしれないけれど、似ているからこそ言えることもあるのかもしれない。2014/07/26
えんさん(연싼)@読書メーター
1
ハッキリ言って、在日の人と分かりあえないかもしれないと感じてしまった。日本人である私は、生まれた時から母語として日本語を何気なく使っていて、それが朝鮮を侵略した側の言葉であり、在日の人々のアイデンティティを混乱させることを分かっていても、その言葉を通じて生きていかねばならないからだ。ただ、いつまで経ってもお互いに分かりあえないと分断するのは嫌なんですがね。2015/07/01