内容説明
なぜ東京オリンピックのために、ザハ・ハディドの手による新国立競技場が必要なのか。加熱する資本主義システムに加担する「ブランド」建築家たちの論理を厳密に検証。何者も国家と資本の論理から逃れられない絶望の只中で、未来の建築をいかに構想することができるのか。
目次
1 新国立競技場計画設計競技
2 ザハ・ハディド案
3 ブランドとしての建築家
4 革命の終焉
5 「社会性」からの撤退
6 ポスト・モダニズムからネオ・モダニズムへ
7 建築は芸術か?
8 誰のための建築か?
9 東日本大震災
著者等紹介
飯島洋一[イイジマヨウイチ]
1959年、東京生まれ。1983年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。1985年、同大学大学院修士課程修了。建築評論家/多摩美術大学教授。1995年に日本文化デザイン賞受賞。2003年にサントリー学芸賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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nbhd
15
読んで、いろいろ考えさせられて、とてもよかった。著者が“資本主義の波にのっている”とする建築家たち(安藤忠雄、伊東豊雄、妹島和世、西沢立衛、石上純也、フランク・ゲーリー、ザハ・ハディドら)を痛烈に批判した本。建築を語るのは難しい。それは、建築は「かたち」で、それについて語る手だては「言葉」だからで。建築家の「言葉」を拾って批判するぶんには著者の言葉は的を射ていると思うけど、建築家があみだした「かたち」に関していうなら的外れな批判だなと。2017/09/24
bb
12
国立競技場問題を導入に、安藤忠雄のような著名建築家によるその人「らしい」建築について「ブランドを欲しがる資本家に応じて定番商品を自己再生産してるだけ」と批判する。「震災後に社会性を言い出してもブレの範囲内、被災地の外ではいつも通りじゃん」とか、「水滴をイメージっつっても実際コンクリの塊だろ」とか、それ言っちゃうんだという手厳しさ。論調は一貫して悲観的だが、スター建築家の百花繚乱を無批判に眺めていたミーハー初心者としては、「建築≠芸術」という立場は刺激的だった。謎の引用が多くて文意を掴みにくいのがちと辛い。2015/05/04
ponnnakano
3
建築関係者ならあえて誰も言わないところに切り込んでの渾身の批判で、同意できる部分も多々あった。(うなづけない部分もあった)伊東豊雄やSANAAはともかく、石上純也は社会のことなんてそもそも考えたこともなさそうだし、安藤忠雄も国立競技場が問題となった後の対応を見れば、やはり社会性はないと批判されてしかるべきと思っている。これだけ正面きっての批判なのだから、批判された側から反論して議論を深めてほしい。僕は今の伊東豊雄さんは本気だと期待しています。甘いか?2016/09/27
TAKAMI
3
地域性のない、資本家の商品となったスター建築家の「らしい」建築に対する批判の本。言いたいことはわかるけど、批判の論拠に「建築家なき建築」方面とコルビュジェをはじめとする「社会革命の精神のあった」モダニズム礼賛方面とあってゴチャゴチャ。しかもオチがない。文句言いたいだけに感じられた。確かに勉強になるところもあったけど、これが批評と言えるのか?という。読みたい本リストは増えたので引き続き勉強します。2015/03/30
koyasho
3
「らしい」建築の批判は分かった。では、「らしくない」建築はどういう建築なのだろう。そこをもっと知りたかった。2014/11/09