目次
古代(『日本霊異記』―慚愧の精神・初発;『法華験記』―冥界体験;『今昔物語集』―慚愧譚の変容)
中世(『万丈記』―心身感覚・世間感覚;『正法眼蔵随聞記』―名聞・冥照;『雑談集』―理念と情念)
近世(鈴木正三・仮名法語―儒と仏)
附論(山上憶良「沈痾自哀の文」考;悪死譚考)
著者等紹介
池見澄隆[イケミチョウリュウ]
1941年福井県生。大谷大学大学院博士課程満期退学。東北大学博士(文学)。日本思想史・日本宗教史。現在、仏教大学文学部教授・仏教大学図書館館長・浄土宗学研究所嘱託研究員、日本宗教学会理事・仏教史学会評議員・日本思想史学会監事、2001年4月から2002年3月までロンドン大学(SOAS)にて客員研修員
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感想・レビュー
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ぽん教授(非実在系)
3
超常的なあの世や神仏の世界に対する畏敬感情が当然であった前近代に特有の恥たる慚愧という感情は、ルース・ベネディクトには観察することができなかった。よって、この知見を世間と空気の近代日本に対する修正を迫ることも可能なのではなかろうか。如何に科学全盛、神は死んだと言われても、宗教心がなくなることはないのだから。以上の発想の基盤となりうる本書は山本七平や阿部謹也に対するアップデートという点でも大きな意義を持つ。2020/09/25
半木 糺
1
ルース・ベネディクトの『菊と刀』による「恥の文化」論は多大な影響を及ぼしたが、本書はそれに対する日本思想史学の立場からの応答といえる書籍である。著者は、古代・中世の説話集や法話に見られる言葉「慚愧」を、人々の、神仏等の人知を超えた「冥」なる存在に対する「一方的被透視感覚」あるいは「見えないー見られる」関係性を前提としたものであることを論じ「世間」に対する反応である「恥辱」と対比させる。その上で、近代以前の日本人がいかに「冥」なる存在に対し「はぢ」あるいは「懺悔」をしていたのかを解き明かしていく。2008/05/12