出版社内容情報
日本ポップス界の時代を画したバンド
「加山雄三&ザ・ランチャーズ」
「湘南ポップス」を定義したい!
明確ではないが《湘南サウンド》という言葉はあった。
ニッポン放送のDJ亀渕昭信が
「ザ・ワイルド・ワンズは《湘南サウンド》をつくった
グループのひとつ」と記し、大瀧詠一は
「《湘南サウンド》の起源は1958 年の石原裕次郎主演の
映画『狂った果実』」としている。
確かにこの映画は湘南をイメージしたのかもしれないが、
しかし曲はアメリカンポップスに馴れ親しんだ耳にとっては
「ポップス」ではなかった。
とはいえ「Dedicated」
(加山雄三が大学生の時に作詞作曲した英語の曲)は、
他のアメリカンポップスと比べても全く違和感がない。
洋楽テイストにあふれた日本、特に湘南を中心に
アメリカンポップスにもまけない音でつくられた
ポピュラーソングを「湘南ポップス」と命名する。
「君といつまでも」「想い出の渚」はスタンダードとして
カバーが存在する。
そんな湘南ポップスはどのように誕生したのか。
加山雄三&ザ・ランチャーズは日本初の自作自演、
ヴォーカル&インストルメンタルグループ。
同時期の青春歌謡やGSの曲はいつしか消えた。
2014 年、加山は武道館でライブを行ない、2015 年に
ザ・ワイルド・ワンズも結成50 周年コンサートを開いた。
いわゆる《湘南サウンド》ではさし示す幅が狭いのだ。
当時を知る貴重な証人、喜多嶋瑛・修兄弟への取材、
さらにはのちに湘南生まれのミュージシャンがつくった
音楽も含め、「湘南ポップス」誕生の原点を詳細に探る。
[序章]
湘南ポップスとは何か
湘南ポップスの原点
湘南ポップスのブレイク
[1章]
1961?65年
湘南ポップス誕生まで
1965年7月、
加山雄三・ミーツ・ザ・ベンチャーズ
[2章]
1965年
1965年パシフィックホテル茅ヶ崎
1965年にリリースされた曲
1965?66年の加山雄三と映画
加山雄三と66年4月のハワイ
加山雄三の作曲法
1966年のランチャーズの
エキストラメンバー堤光生
喜多嶋修が聴いた音楽
[3章]
1967年以降
1967年の加山雄三&ザ・ランチャーズ
加山雄三&ザ・ランチャーズ・ライブ
・イン武道館
加山雄三&ザ・ランチャーズ、
ライブ・オブ・リオ
68年6月?加山雄三とボサ・ノヴァ
松生 恒夫[マツイケ ツネオ]
まついけ・つねお
医学博士、日本内科学会認定医。1955 年東京生まれ。
1980 年東京慈恵会医科大学卒業。
1983 年東京慈恵会医科大学第三病院内科助手。
1994 年松島病院大腸肛門病センター診療部長。
2003 年松生クリニック。
日本消化器内視鏡学会指導医・専門医、
日本消化器学会認定専門医、日本東洋医学会専門医、
日本大腸肛門病学会専門医、
日本精神分析学会・正会員、
日本消化器内視鏡学会関東地方会評議員主要専門領域。
主な著書には、
『オリーブオイルで老いない体をつくる』(平凡社)、
『朝の腸内リセットがカラダを変える』(主婦の友社)、
『楽しみながら脳を活性化! 昭和「思い出し」クイズ』
(光文社知恵の森文庫)、
『腸を温め健康!やせる!腹巻きパンツ・ダイエット』
(宝島社)、
『腸に悪い14 の習慣「これ」をやめれば腸が若返る』
(PHP 新書)等多数。
宮治 淳一[ミヤジ ジュンイチ]
みやじ・じゅんいち
1955 年茅ケ崎市生まれ。
小学生時代にビートルズ、ヴェンチャーズなど、
英米のロックンロールにはまり、以後洋楽を志す。
1979 年、今は無きディスコメイト・レコードに入社。
パイオニアLDCを経て、1995 年から
ワーナーミュージック・ジャパンで洋楽編成を担当し、
エンヤ、マドンナ、レッチリなどの新譜の他、
カタログの復刻に魂をそそぐ。2010 年、同社退社後も
世の洋楽ファンのためにカタログ商品の編成、
ラジオでのDJ、選曲を手がける。
アナログ、特にシングル盤に目がなく1999 年、
自宅を改造し、週末だけ音楽資料館「ブランディン」として、
収集した膨大なレコード、音楽書籍を一般に開放している。
信条は「レコードはかけなきゃ音が出ない」。