私たちの戦争責任―「昭和」初期二〇年と「平成」期二〇年の歴史的考察

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  • サイズ A5判/ページ数 206p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784773633078
  • NDC分類 210.7
  • Cコード C0031

出版社内容情報

日本の植民地支配を正当化し侵略戦争を否定する歴史修正主義の言説があとを絶たない。天皇の「聖断」で「終戦」がもたらされたという「聖断論」は戦争責任をあいまいにした。その結果、戦前の権力構造が戦後日本の政治・行政の中核となった。経済成長を支えた「傾斜配分方式」は総力戦体制確立の過程で生み出されている。満州国の高級官僚で開戦時の商工相・岸信介は占領が終わると復権して首相まで上り詰め、靖国神社への政治家の参拝も戦後すぐ再開されている。

●はじめに 二つの「二〇年」
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序 章 帝国日本の原型とその再登場――田母神問題の本質
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帝国日本再登場への期待
「昭和」前史としての大正デモクラシー
「昭和」初期の二〇年
総力戦時代のデモクラシー
「平成」の二〇年
「昭和」初期二〇年と「平成」の二〇年の共通点
帝国日本の再登場
〝昭和初期〟への郷愁
自立と一体化の同時進行
政治と憲法と自衛隊
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第一章 帝国の天皇と象徴の天皇――聖断論と天皇の免責
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「切断論」と「連続論」
天皇制の存置がもたらしたもの
明治国家の政治システム
「聖断」による戦前の〝戦後化〟
敗戦と「聖断」「戦争終結の詔書」
「聖断神話」の形成
日本の侵略責任と敗戦責任を後方に追いやる
戦後天皇制と聖断論
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第二章 戦時官僚が指導した戦後の経済復興――岸信介の再登場
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岸信介の再登場
岸信介の総力戦
「戦時官僚」岸信介
戦後に実現した総力戦体制
岸再評価の背景
岸再評価の今日的意味
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第三章 靖国神社と明治以来の戦争――小泉公式参拝強行の背景
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過去と現在とを接合する靖国神社
靖国神社の位置
靖国神社の宗教的政治的機能
靖国神社の解体と再建
日本社会の右傾化と国家神道の復権
靖国神社国家護持と自民党
中曽根首相の靖国神社参拝問題
九〇年代における靖国神社参拝問題の新展開
公式参拝にこだわる理由
公式参拝のどこが問題か
アジアの声を無視するのはなぜか
靖国神社と「国民意識」
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第四章 日本はアジアを侵略した――歴史の歪曲は不信を生む
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植民地支配意識の希薄さ
アジア太平洋戦争とは何だったのか
アジア太平洋戦争を考えるための三つのアプローチ
「アジア解放戦争」論の出所はどこか
「民族解放」論の背景
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第五章 アジア太平洋戦争の歴史事実――卑劣な歴史修正主義
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「戦争目的」の視点から
「植民地経営」の視点から
歴史認識の希薄さの原因はどこにあるのか
「アジア解放戦争」論が繰り返される理由
歴史の記憶と忘却
植民地主義をめぐって
「植民地近代化」論とは何か
「アジア解放戦争」論の清算を
歴史認識の共有は可能か
信頼醸成
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第六章 日米安保がアジアとの和解を阻害した――日米同盟とアジア
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歴史の封印に手を貸した日米同盟
日本人の歴史認識を規制した米国の狙い
日米安保条約の歴史観
〈歴史認識同盟〉の問題点
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終 章 過去と向き合う―ということ――戦後世代の戦争責任
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真の解決に向けて
戦後世代の戦争責任
政治的責任としての戦争責任
戦争責任は国境と時効を超える
戦後世代の「戦後責任」
暗躍する歴史修正主義者たち
求められる歴史の〈奪還〉
さまざまな歴史観のなかで

●あとがき 私たちの戦争責任

●索  引



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■はじめに――二つの「二〇年」
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「昭和」が終わってから、すでに二〇年を経た。二〇年という年月は、振り返ってみれば、一九二六年に「昭和」が始まってから、一九四五年の敗戦までと同じ年数ということになる。

 このことに特別な意味を求めるわけではないが、私には「昭和」に入ってからの「二〇年」と、「平成」に入ってからの「二〇年」とに、何かしら似通ったものを感じてしまう。敗戦から「昭和」が終わるまで、いくつかの試行錯誤を繰り返しながら、ともかく日本は大筋では平和と安定を求め、それを実現してきたように思う。しかしながら、「昭和」が終わって、時代の記憶が遠くなればなるほど、戦争と混乱の時代であった昭和史が様相を変えて再生しつつあるのではないかと思われてならない。

 敗戦から「平成」まで、昭和の痛苦の体験が正面から語られ、教訓となって受け継がれてきた。こうした歴史を学ぶことが平和と安定を創り出す力になっていたはずだ。しかし昨今、歴史の体験と教訓が人々の記憶から薄らいでいると感じている人が少なくない。だが、問題は、どのように薄らいでいるのか、なぜ薄らいでしまうのか、ということではないか。

 本書では、戦後の社会と日本人の認識のなかに、いつのまにか刻み込まれてしまった――誤解を恐れずに言えば――誤った昭和史観を指摘することで、いまいちど、「昭和」と「平成」の二つの「二〇年」を読みなおしてみたい。その根底には、この二つの「二〇年」が水面下で強くつながっているのではないか、という私の仮説がある。もちろん、自分自身の昭和史の捉え方が全く正しいなどと思っているわけではない。歴史には多様な見方や読み方があり、それゆえに歴史論争が起き、歴史への接近が図られる。私のように、「昭和」冒頭の二〇年と「平成」の二〇年の類似性を読み取り、そこにある種の危うさを強調しようとする者もあれば、異質性を踏まえることで、戦後の――また「平成」の――安定と成長を評価する見解も、別種の見方として成り立つだろう。なかにはまだ二〇年しか経っていない「平成」を歴史評価の対象にすることに、とまどいを感じる人もあるかもしれない。

 だが敗戦後の日本では、日本の植民地支配を正当化し免罪符を得ようとする、「植民地近代化論」とでも言うべき歴史観が培われてきたと指摘できる。問題は、なぜ歴史事実を無視してまで、植民地支配を正当化しようとするのかだ。再び植民地支配をあえてしようとするわけではなくても、こうした正当化からは、植民地支配責任論がかき消されてしまい、最終的には「植民地支配」という歴史事実そのものの否定につながりかねない。

 また、戦後一貫して流布され続け、今も多くの日本人を捉えている、いわゆる「聖断論」にしても、歴史事実とは別の次元で、ある種の政治的な役割を果たしてきたことは確かである。裕仁天皇によって始められたあの戦争が、同じ裕仁天皇の「聖断」によって止められたという説明をもって、戦争の責任の所在があいまいにされてしまったことを私たちは知っている。「聖断論」は、裕仁天皇の戦争責任をぼかし、天皇周辺の、東條英機[一八八四~一九四八年。A級戦犯]を筆頭とする軍事官僚たちを主たる戦争責任者とした。「聖断」がなければ新たな日本の出発がなかったかのような「聖断論」によって、戦前の権力構造がそのまま戦後へスライドし、同時に戦前保守は装いを新たにして戦後保守へと再生していった。

 ところが、その歴史過程が「聖断論」という弾幕に覆われていたために、戦後保守の実体が私たちの視界に入ってこなかったのである。「昭和」が終わる頃に、その弾幕が薄れて戦後保守の実体が見え始めたとき、私たちの前にあったのは、軍事(有事)法制の整備であり、そしてからくも戦後日本民主主義を担保してきた日本国憲法の見直し論であった。同時に、「平成」になって、東條英機の盟友であった岸信介[一八九六~一九八七年。A級戦犯]が再評価されるに至る。そのきっかけは、岸を外祖父に持つ安倍晋三が一躍首相に就いた二〇〇六年九月あたりからであろう。因みに、岸信介は山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)の佐藤家の次男として出生し、中学三年の時に婿養子であった父の実家である岸家の養子となった。その岸の娘が安倍晋三の父である安倍晋太郎[一九二四~九一年。外相]に嫁いだ。安倍晋三は、それより以前から拉致問題に絡む対北朝鮮外交における強硬発言で頭角を現しつつあり、自民党内の〝プリンス〟として世論やマスコミの注目を集め始めていた。その安倍は尊敬する政治家として外祖父の岸信介を事あるごとに口にしていたのである。

 また、「靖国問題」あるいは「靖国思想」として語られる「靖国公式参拝」が社会・外交の問題となる。開戦時の商工相・岸信介は占領が終わると復権して首相まで上り詰めた官僚出身の政治家であり、また靖国神社への政治家たちの参拝は、戦後まもなく再開されていた。これらは特段、「平成」になって問題化したわけではない。しかし、「平成」になって、岸信介の再評価が浮上し、靖国神社参拝が社会問題化したのは、これらが二つの「二〇年」をつなぐ媒体のような役割を担っているためであり、今後とも内外の大きな批判を呼ぶだろう。

 本書では、「昭和史」と「平成史」を同時的に捉えることによって、二つの「二〇年」をつなぐ歴史事実を検討する。「昭和の二〇年」に繰り返された戦争と混乱の歴史を繰り返さないためにも、今いちど二つの「二〇年」を捉えなおしてみたい。

過去の戦争に責任はなくとも、明日の戦争には責任がある。「昭和」の戦争は「大正」デモクラシーの時代に助走を始めている。

目次

はじめに 二つの「二〇年」
序章 帝国日本の原型とその再登場―田母神問題の本質
第1章 帝国の天皇と象徴の天皇―聖断論と天皇の免責
第2章 戦時官僚が指導した戦後の経済復興―岸信介の再登場
第3章 靖国神社と明治以来の戦争―小泉公式参拝強行の背景
第4章 日本はアジアを侵略した―歴史の歪曲は不信を生む
第5章 アジア太平洋戦争の歴史事実―卑劣な歴史修正主義
第6章 日米安保がアジアとの和解を阻害した―日米同盟とアジア
終章 過去と向き合う‐ということ―戦後世代の戦争責任
あとがき 私たちの戦争責任