グローバル経済と現代奴隷制

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  • サイズ B6判/ページ数 413p/高さ 19cm
  • 商品コード 9784773627015
  • NDC分類 361.8
  • Cコード C0036

出版社内容情報

現代社会で奴隷労働が生み出す巨大な利益を享受するのは先進国の「善良な」市民だ。安価な商品が生まれる背景には2700万人に及ぶといわれる奴隷の存在がある。売春婦・レンガ工・炭焼き人夫・農夫として最底辺に生きる人たちの実態を克明に調査した社会学者の渾身のレポート。奴隷制はつねに児童と女性に過酷な運命を強いる。「使い捨て」奴隷たちの搾取の連環を断ち切るために今、いかに行動すべきか。

第1章 新しい奴隷制度
第2章 子どものように見えるから[タイ]
第3章 忘却されざるいにしえ[モーリタニア]
第4章 ぎりぎりの生活[ブラジル]
第5章 奴隷はいつ奴隷でなくなるか[パキスタン]
第6章 農夫の昼食[インド]
第7章 今なにをなすべきか
付録(1) 調査法に関するノート
付録(2) 奴隷制度に関する国際条約(抜粋)
訳者あとがき

訳者あとがき

 アメリカ合衆国出身の社会学者ケヴィン・ベイルズによる本書の原題は、 Diposable Peopleである。disposableという単語には、「用が済んだら捨てる」「使い捨てる」「処分できる」などの意味がある。このことばは、紙コップや割り箸、ファーストフード店のプラスチック食器などにこそふさわしく、およそ、「人々」を修飾するには場違いな、本来であれば、使いえない形容詞である。しかし、本書においてベイルズは、まさに「使い捨てられ、廃棄される人々」の姿をつぶさに調査し、克明に描きだしている。そして、人間の「使い捨て」がどのような社会で、どのような条件のもとで可能になるか、そのしくみを各国の文化、歴史、社会構造に目配りしつつ、丁寧に解き明かしている。

 だが、タイトルの「現代奴隷制」という日本語を見て、「奴隷制だって? それはもう、とっくの昔に終わった話なんじゃないの?」と思われた方もおられたかもしれない。現代日本に生まれ育てば、それがごくふつうの感想であろう。ちなみに、ベイルズが厳密に奴隷制と呼ぶのは、次の二つの条件を備えているかどうかがポイントとなる。まず第一に、搾取する側が、人間労働の収益性に着目しているせられているだけなんじゃないの?」という反応も予測できる。少し理屈をつければ、「人間が人間を所有する奴隷制は、非合法であるから、現代には奴隷制は存在しない」ともいえる。そのほか、「貧しい国では重労働くらいは仕方ないから、労働環境を整えるように働きかけたほうがいい」「奴隷にならなければもっと悲惨な生活をしているんだから、衣食住が保証されている奴隷状態のほうがまだマシだ」「奴隷制ということばがひとり歩きしている」「経済搾取が行われているのは事実としても、ここに挙げられているのはほんの数例でしかなく、二七〇〇万人とベイルズが試算するほどの奴隷が本当に存在するのかは疑問だ」などなど、昨今の日本における社会事象や歴史認識の問題をめぐる議論を見聞すれば、現代人としては向き合いたくはないような問題が目の前に突きつけられた際の典型的な反応や応答、反論、異論の類が次から次へと耳に聞こえてきそうである。

 だが、本書を読まれた方なら、お気づきのとおり、こうした反応は、まさに奴隷所有者に固有のものである。実は、この自己正当化のための議論、汚いものにはフタをして見ざる聞かざるの構えを取り、論点を微妙にずらして問題の本質を見ないいられない。

 そして、「存在するものは仕方がない、せめて、労働環境を整えてやろうじゃないか」「もし、ここで奴隷にされていなければ、もっと酷い状態に陥るんだから、奴隷でいたほうが幸せなのだ」とは、アメリカ南部の旧奴隷制擁護論者の議論の中でたしかに聞いた台詞である。しかし、現代奴隷制では、こううそぶいている当人が、奴隷所有者となるばかりか、自ら、奴隷制の罠に囚われる危険も大きい。旧奴隷制では、どこまでいっても、人種的差異によって、奴隷主は奴隷主、奴隷は奴隷であった。しかし、現代の奴隷制では、人種の上での違いはもはや重要ではなく、両者の関係はメビウスの輪さながらよじれている。だから、いつ、立場が逆転してもおかしくはないのだ。

 しかし、私たちに危機意識が欠けているのもむりからぬところがあろう。一般的大多数の日本人が、今のような「自由」を享受できるようになってから、それほど長い時間が経過したわけではないという簡明な事実ですら、私たちは、すっかり忘れているのだから。封建制が崩壊したと考えられている明治維新からでも、たかだか一四〇年足らず、第二次大戦後からでは、六〇年足らず、である。この間、買売春はなくなられているかのような感覚しか持てないでいる。滅菌処理された「自由」のなかで生まれ育つと、「自由」が空気のようにあたりまえの状況であるかのような錯覚に陥る。だから、まさか、注意深くしていないと、そのあたりまえの「自由」が、たやすく奪われてしまうかもしれないとは、想像だにしない。

 だが、簡単な質問を日本の若者に問うてみれば、彼らから、「自由」を奪うことがいかに簡単なことかを理解できるかもしれない。その質問とはこうだ。「ある日、数人の腕力の強そうな、みるからに恐そうな男の人たちがやってきて、『あなたのお父さんとお母さんが多額の借金を残して失踪しました、両親の借金ですから、子供のあなたが支払ってください、お金がないなら、こちらが指定した場所で、指定した仕事をして、借金を返してもらいます』といわれたら、あなたはどうしますか?」多くの若者が、「しかたがないから、相手のいうとおりにする」「警察に行く」「親戚や友だちに相談する」などと答える。だが、警察ではかくまってはくれないし、親戚や友だちが法学部出身だとか弁護士ででもないかぎり、本人と同程度の知恵しか出せないかもしれない。策を持たない彼らに対しては、「屈強な男たちがも、「人権」ということばは、それさえかざせば理不尽なことでもまかり通すことのできる錦の御旗でもあるかのように、不幸な誤解を受けることばの代表格でもあり、人権教育が効を奏しているとは言い難い。

 極端な例をあげたと思われるかもしれない。本当に追いつめられたら、どこかでだれかが助けてくれるということは、確かに日本では、まだまだ期待できる。しかし、その一方で、なにも知らず、知らされず、助けも求められないまま、監禁されたり、ただ働きさせられたり、契約書をちらつかされて金を騙し取られたり、法外な高利を要求されたり、いじめのあげく大金を脅しとられたり、最悪の場合は餓死・自殺にまで追いつめられたり、保険金目当てに殺されたり、という事件が、かなりの頻度で新聞に載ったりするのも事実である。つまり、本書で挙げられたような隷属状態におかれても、どこがどうおかしいのか、考える筋道が立てられない、あげくに相手のいいなりにされてしまう、という心理状態に追いこまれる可能性は、私たちの日常生活から消えているわけではない。

 さて、一見、現代奴隷制の犠牲者になる立場からもっとも遠いところにいるかのように見える日本人も、奴隷化のしく奴隷商売に投資して加担してしまう可能性が増加した、ということにほかならない。株式や投資が、もっと身近なアメリカ人は、奴隷制に加担している可能性がもっと大きい。目先のもうけに一喜一憂している姿は、奴隷所有者が、奴隷の働きから絞りとろうとする姿に重なる。

 それでも、現代奴隷制の加害者になっているという意識を持てない、という日本人のために、具体的な例をひとつあげよう。それは、ベイルズが、「私たちは、自分の子供たちが、奴隷の子供たちが造ったサッカーボールを蹴って遊ぶのを幸せな気分で眺めていられるだろうか」(三六七頁)というくだりである。これが、単なる比喩ではないことを、私たちは事実として知ることになった。本書の訳稿がほぼ整った頃、サッカーのワールドカップが開幕した。試合のゆくえを追って、世界中が熱狂しているさなかの六月二〇日、朝日新聞に次のような記事が掲載された。「W杯サッカー公式球の産地」であるパキスタン東部の町・シアルコットが「児童労働撤廃モデル都市に」なったと報じる記事である。この町では、かつて、子供の労働者がサッカーボールを作っていたのであるが、世界的に注目されるサッカーのボールを子供が生産していたの奴隷が――関係しているかもしれないとは、応援に興じる大半の観衆には思いもよらないことであろう。

 このように、「まさか」というものが、奴隷の手による品物であったり、奴隷労働によって成立している産業であったりする。サッカーボールにしても、「今はもう、子供が作っているわけではないんだから、それでいい」とは言いきれない。本書でも考察されているように、ブラジルの炭焼き奴隷にされていた家族が、メディアに取り上げられた結果、一部では、労働条件の改善と児童労働を撤廃する、という動きにつながったが、場所と職種が変わっただけで、あいかわらず、子供たちは奴隷労働に従事させられている。世界からの注視がそれれば、こうした子供たちが、再びもとの仕事に返されるのは目に見えている。

 こうした児童労働、子供の奴隷化の実態については、先行研究として、一九八八年刊のRoger Sayer著のChildren Enslaved(邦訳『奴隷化される子供たち』三一書房 一九九一年)がある。この衝撃的な研究報告書の出版後、ILOやユニセフからの児童労働に関する報告が、日本の新聞などでも目にとまるようになった(もっとも、記事は概して短いのだが)。最近のILOの報告書ではパキスタンやインドへと難民が押しよせ、事態は、本書の調査が行われた時期よりも悪くなっていることが推測される。

 さらに、苦境に立たされると、まっさきに犠牲になるのが、子供と女性である。タイの少女スィリのように、うつろな瞳の奥に絶望と折り合いをつけてしまう子供を、これ以上増やしたくはない。「子供を持つ親ならば、自分の子供たちには最良のものをと願うが、その最良のものが、他の人の子供を犠牲にして作られたとしたらどうだろうか」と、ベイルズが投げかける問いに、私たちはどう答えればよいのだろうか。

 奴隷制を廃止しよう、と真摯に考えるなら、息の長い闘いを展開していかねばならない。これは地道な闘いである。ベイルズが挙げる五つのポイントの他に、本書の読者が今日からでもできることを挙げてみよう。まず、グローバル化経済の本質を見極め、世界の反対側にいる労働者と私たちの生活が必ずしも無縁ではないという意識を持つこと、あたりまえに享受している自由が奪われたらどういう生活になるのか想像してみること、他人の労働の対価だけではなく他人の人権に敏感になること、買売春に加担しない精神を養うこと、などである。ラグマーク運動でも明らか

「グローバリズム=経済繁栄」の幻想の裏側で苦しむ第三世界の〈使い捨て〉奴隷の現実をえぐり出した社会学者のルポ。奴隷制は私たち自身の問題だ。

内容説明

奴隷制はどこかよその国の過去の問題ではなく、現在も進行中の地球規模の現実だ

目次

第1章 新しい奴隷制度
第2章 子供のように見えるから―タイ
第3章 忘却されざるいにしえ―モーリタニア
第4章 ぎりぎりの生活―ブラジル
第5章 奴隷はいつ奴隷でなくなるか―パキスタン
第6章 農夫の昼食―インド
第7章 今なにをなすべきか

著者等紹介

ベイルズ,ケビン[ベイルズ,ケビン][Bales,Kevin]
社会学者。英国サリー大学で教鞭を執る。主として現代奴隷制を調査・研究

大和田英子[オオワダエイコ]
1961年生まれ。専攻はアメリカ文学。福島大学助教授を経て、現在、法政大学教授。フルブライト・プログラムにより、ニューヨーク州立大学にてPh.D.を取得
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

感想・レビュー

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犬吉

2
薄々気づいていたことを眼前に示されてしまった。この本の刊行から約10年、おそらく状況は変わっていない。結局人間の業なんだろうか2022/04/08

tochork

1
じゃあ、それと同様なレベルの事件が東京でも起きてるよってこと書いたりしてるのがこの本2013/07/31

nazukenta

0
れんが工場のドキュメンタリーを見たことがある。2016年5月31日、【AFP=時事】世界各地で「現代の奴隷」状態に置かれている人の数は、成人と子どもを合わせて4500万人を上回っていることが、31日に発表されたNGOの年次報告書で明らかになった。当初の予測よりはるかに多く、3分の2がアジア太平洋地域を占めている。現在進行形。 2016/04/23

jiroukaja

0
以前、著者が来日したときサインもらった

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