内容説明
教養小説はなぜ変身し再生し続けるのか。深化するファシズム状況の中で、『ジャン・クリストフ』、ドストエフスキー、カフカ、カミュ、島木健作、木々高太郎からドラキュラまでを読み解く。
目次
序章 なぜ“教養小説”か?
1章 自己形成と共同体の夢―教養小説の人間像
2章 市民社会の刻印をおびて―危機の表現としての教養小説
3章 われ行きて、わが魂を試みん―教養小説の書けぬ作家たち
終章 革命とファシズムのはざまで―転向形式としての教養小説
ドラキュラとその兄弟たち
著者等紹介
池田浩士[イケダヒロシ]
1940年大津市生まれ。1968年から2004年3月まで京都大学勤務。2004年4月から京都精華大学勤務(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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たぬき
3
キノの旅に言及あり
田中峰和
3
主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描いた小説は教養小説とよばれ、独語のビルドゥングスロマンの訳語。日本で最初に思い浮かぶのは漱石の「三四郎」だが、時代が下ると吉川英治の「宮本武蔵」までその類型に当てはまる。さらに大衆化が進むと蔑視されがちなライトノベルにも波及し、さらには文学の枠を超えて小説の限界を突破した。越境の最も古い例は、長編漫画の「巨人の星」「あしたのジョー」だった。これらは職業選択と職業的自己修養の物語として、少年たちの夢を具現化した。教養小説の崩壊は大衆化がもたらしたのか。2016/08/13
プレイメーカー
1
ゲーテの「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」「遍歴時代」「ファウスト」ヘルダリーンの「ヒュペーリオン」ノヴァーリスの「青い花」を読んでいたので、それらに共通するのは教養小説であることだったが、どうにも腑に落ちない、疑問に思っていた部分があった。どの主人公たちも自己形成までは上手くいくが、その主人公たちが活躍する社会、共同体というものが、一切描かれていないことだった。一人一人が個性に合った仕事をして、自己形成をしながら活躍する社会を、特にゲーテは考えていたようだが。個人と社会が完全に分断されている感がある