• ポイントキャンペーン

ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る―バッシングを超える知の経験

  • ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません。
  • サイズ B6判/ページ数 320p/高さ 19cm
  • 商品コード 9784750323046
  • NDC分類 370.4
  • Cコード C0037

出版社内容情報

ジェンダー・フリー教育への攻撃がここ数年激しい。その社会的背景、男女観・家族観の本質を吟味しその言説に根拠がないことを明らかにする。また、ジェンダー及びセクシュアリティの教育を今後どのように進めるのか、理論と実践面からあらたな提起を試みる。

はじめに
第一章 性教育・男女平等バッシングの背景と本質――日本の動向・世界の動向・包括的性教育の課題(浅井春夫)
 はじめに――性教育・男女平等バッシングの政治的背景
 一 わが国の性教育・男女平等バッシングの動向
 二 性教育・男女平等バッシングの背景とその手法
 三 性・ジェンダーに関する政策の分岐点と政策方向
第二章 ジェンダー/セクシュアリティ/家族をめぐる教科書検定(鶴田敦子)
 はじめに
 一 教科書検定制度というマクロな「政治」
 二 「ジェンダー」及び「ジェンダー・フリー」の記述について検定はどのように行われたか
 三 「家族」について検定はどのように行われたか
 四 「性」に関して教科書検定はどのように行われたか
 五 男女共同参画社会基本法の理念に反する扶桑社『公民』の教科書は検定合格
 おわりに
第三章 人口減少社会の争点と男女共同参画社会への課題(吉[士が土]田和子)
 はじめに
 一 女性労働の変容と「均等法」成立の意義
 二 バックラッシュの、少子化の「社会問題化」の核心は何か
 三 近代化における人口増加の背景と国力の争点
 四 三〇代の生活実態に見る男女共同参画社会への課題
 おわりに
第四章 子どもの性的発達と性教育の課題(浅井春夫)
 はじめに――時代の逆流に抗して、事実・現実・真実に即した性教育を
 一 子どもの性的発達をめぐる議論
 二 性教育の具体的なテーマ
 三 性教育のサードステージの課題
 まとめにかえて――性教育は不可欠の教育実践
第五章 性的マイノリティバッシングから見えてくる性教育の課題――構成主義としての性教育実践の視点(吉[士が土]田和子)
 プロローグ――セックス/ジェンダー/セクシュアリティの脱自然化
 一 藤原教育実践バッシングから見えてくることは何か
 二 性的マイノリティを可視化することの意味と構成主義の視点
 エピローグ――構成される人権と差異の政治
第六章 ジェンダー・バックラッシュと家族の言説(山田 綾)
 一 はじめに
 二 ジェンダー・バックラッシュと家族の問題化
 三 新自由主義・「自己責任」・家族
 四 教室と分析空間のなかで、家族を語り直す
 五 家族の学びを考える
第七章 アイデンティティと教育をめぐる政治――ジェンダー/セクシュアリティ問題が示唆するものとそれへの対抗(山田 綾)
 一 ジェンダー・バックラッシュとアイデンティティ形成
 二 アイデンティティの問題とジェンダー
 三 アイデンティティの形成とカテゴリーの政治
 四 ジェンダー/セクシュアリティとアイデンティティの再考
 五 学校におけるアイデンティティの政治とジェンダー/セクシュアリティ
 六 ジェンダー・センシティブに学校と教育を問うために
 七 アイデンティティの政治に対抗する教育実践アプローチ
第八章 ジェンダー・バッシングと教育の秩序化批判(子安 潤)
 はじめに
 一 扶桑社公民教科書に見る秩序化
 二 学校と家族のジェンダー秩序
 三 グローバリズムとナショナリズムの補完関係の変化
 四 教育の保守化運動
 五 教育の保守化運動批判
あとがき

はじめに
 二〇〇〇年を前後する頃から、男女ともに学んでいる高等学校の家庭科の教科書や、性教育、男女平等教育(ジェンダー・フリー教育、五頁参照)に対して、「新しい歴史教科書をつくる会」の代表的な人々や国会議員の山谷えり子氏・後藤博子氏などによる、激しい攻撃(バッシング)が顕著に行われるようになった。それは、事実にもとづいた批判ではなくて、これらの教育・教科書を曲解し、さらに「性交をすすめる」「着替えを男女同室でさせる」「家族を解体する」などと、人々が疑念を抱くような文言を使用してなされている。そして、彼等の勢いは、前の中山成彬文部科学大臣(「新しい歴史教科書をつくる会」を後ろ盾している「日本会議」の「日本会議国会議員懇談会」のメンバー)に、これらの教育に関する「御意見箱」の設置を確約させ(二〇〇五年三月)、さらに、自民党に、安部晋三を座長にした「過激な性教育・ジェンダーフリー教育に関する実態調査プロジェクトチーム」を発足させている(二〇〇五年五月)。また、最近の彼等の矛先は、教育ばかりでなく、各地方自治体で制定中の男女共同参画基本条例に「男女共同参画社会基本法」とは異なる見解を盛り込もうと活動するだけでなく、一九九九年に成立したばかりの「男女共同参画基本法」の改訂を画策するまでになっている。
 一方、ほぼ同時期に、フェミニズム(女性に不利益をもたらす差別の撤廃や女性の社会的地位向上、女性が自らの生き方を決定できる自由の獲得などによって、いわゆる女性問題を解決することを目指す社会思想・社会運動。『岩波女性学事典』(二〇〇二)より)に反対の考えをもつ一部の知識人たちによっても、ジェンダー・フリー教育はひとつの価値観を押しつける「全体主義」であるとか、性教育は学校で行う必要はないなどというバッシングが展開されるようになっている。
 なぜ、この時期に、このようなバッシングが行われるようになったのだろうか。その理由のひとつに、これらの教育が一般の人々にも認知されるまでに充実・発展してきたことがある。これらの教育は、もともと、一九七〇年代の半ば頃から、この教育の重要性を自覚する教師たちによって自主的に取り組まれてきていたものであるが、二〇〇〇年頃は、国連を中心にした平等と人権尊重の教育の実施・強化を求める世界の動向(後述)と相俟って、文部行政および各地方自治体の教育行政を動かすまでに発展して数年経ていた時期である。具体的には、学習指導要領において、不十分ながらも小学校の理科と保健に性に関する指導が導入されて約八年、中学校および高等学校において家庭科の男女共修が実施されて約七年を経過している。また、一九八〇年代から取り組まれてきていた男女平等教育(ジェンダー・フリー教育)は、一九九〇年代の後半から各地方自治体の教育行政主導で行われるようになってきていた。そのシンボルとして男女混合名簿の取り組みが行われた。男女混合名簿は、教師が子どもを、また、子ども達同士が互いをみる時、まず性別ではなく一個人として理解し合うこと、およびその環境づくりの一方策として位置づけられてきたものである。
 これらの教育の発展の背景には、国連で採択した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」の国内批准(一九八五)、第四回世界女性会議(北京)での宣言と行動綱領の採択(一九九五)、「人権教育のための国連一〇年」(一九九四)にもとづいた国内行動計画の策定(一九九七)などがある。
 「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」は前文で「男は外・女は内」という性別役割分業を男女ともに見直すことを述べ、男女同一の教育課程を義務づけた。中学校では男子は「技術」、高等学校では男子が女子よりも時間数の多い「体育」、女子は中・高等学校とも「家庭」という約四〇年続いた日本の男女別教育課程は変更を迫られたのである。そして家庭科は、性別役割分業を刷り込む教科から性別役割分業を見直す教科へと転換して実践が行われてきている。また、第四回世界女性会議での行動綱領ではあらゆる事柄をジェンダー視点で見直すことを中心的な課題にすることを提起した。
 ジェンダーとは一言で言えば生物的な性であるセックスに対して、社会的・文化的な性であるとされる。そして現存する「性別役割分業」や「男らしい」「女らしい」などのジェンダーを、固定的にとらえることをやめようという考えがジェンダー・フリーという考えである(ジェンダー・フリーという用語は、英語圏での使用もみられるが、ジェンダー・エクイティやジェンダー・イコーリティの用語の方が多く使用されている)。ジェンダーを固定的にとらえることは、それによって、個人が有している諸能力の発達や本来個人の意思で選択すべき生き方行動を性によって制約・限定することになることから、男女双方にとって「性差別」なのである。従って、ジェンダー・フリーとは、「性差別」の否定であり、ジェンダー・フリー教育は、すべての人の平等を実現するための教育として取り組まれてきたものである。
 そして「人権教育のための国連一〇年」では、人権教育が、一九四八年の「世界人権宣言」以降から現在まで国連における人権に関する諸文書(「経済的・社会的及び文化的権利に関する国際規約」(一九六六))「子どもの権利に関する条約」(一九八九)「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(一九七九)、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(一九六五)「ウィーン宣言」(一九九三)同行動計画」)にもとづくものであることを述べた上で、次のように記している。「人権教育とは、あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、他の人々の尊厳について学びまたその尊厳をあらゆる社会で確立するための方法と手段について学ぶための生涯にわたる総合的な過程である。また、あらゆる年齢の女性及び男性の尊厳と両立しうる発展の概念に人権教育が寄与すべきことをも確信するものである。そのなかには、子ども・先住民族・マイノリティ・障害者など社会を構成する多様な人々への配慮が含まれなければならない」「人権教育は、ジェンダーによる差別を除去し、女性の権利の擁護・促進を通じて平等な機会を保障するための重要な手立てとなると信じる」と。
 日本においては「人権」という言葉に馴染まない感情をもっている人も多いように見受けられるが、「人権」とはこの文書が述べている通り「人の尊厳」と言い換えることもできる。つまり、おかしてはならない人の存在と自由を大切にすることである。それは、自分と他人を大切にすることはどういうことかを、「生身」の人間理解を通して学ぶことによって理解することができるのである。「生」と「性」をつないで学ぶ性教育=セクシュアリティの教育は、そのための基本的な学習として数々の実践が試みられてきている(セクシュアリティとは、セックス、ジェンダー、性的指向(性愛の対象が誰に向けられるか)、性的自己認識(自己の性を認識し受け入れる)など、性にかかわる事柄の総体を意味する)。
 このように、二〇〇〇年前後は、性教育、ジェンダー・フリー教育、男女がともに学ぶ家庭科教育は、人権(人間の尊厳)を基調としたジェンダー/セクシュアリティの教育を重要な内容とする教育として発展をみせていたのである。ジェンダーとセクシュアリティは重なりあう部分があるところから、本書では「/」でそれを表している。ジェンダー/セクシュアリティの教育は、個人のアイデンティティ(他人とちがう自分を自分として承認すること)形成と結びながら他者の尊重について学び、すべての人の人権が尊重される社会づくりに取り組む資質を育むものである。
 ジェンダー/セクシュアリティの教育に対するバッシングは、意図的・無意図的を問わず、この教育の発展を阻み押し戻す逆流(バックラッシュ)である。二〇〇五年一二月、「男女共同参画社会基本計画(第二次)」が出され、ジェンダー・フリー教育に関して、バックラッシュ側の歪曲した主張が、閣議決定として盛り込まれるという、重大な局面をむかえることになった。しかし、三十数年前から理論と実践の両面から試行錯誤しながら築き上げてきたこの教育が、これらの逆流に流され後退することがあってはならない。逆に、これらのバッシングは、ジェンダー/セクシュアリティの教育の核心を鮮明にする機会を提供したと言えよう。
 『ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る――バッシングを超える知の経験――』という本書のタイトルの意味は、性教育、ジェンダー・フリー教育、家庭科教育を、共通にジェンダー/セクシュアリティの教育を受け持つ教育としてとらえ、バッシングの本質を明らかにし、それを乗り越えるジェンダー/セクシュアリティの教育の方向性を提案しているところにある。
 第一章では、性教育に関するバッシングの具体的な事実および性教育に関する世界の動向から、バッシングの背景とその意図を考察している。
 第二章では、ジェンダー/セクシュアリティの教科書の記述内容について主に二〇〇四年度検定がどのように行われたかを分析し、検定とバッシング派の関係を考察している。
 第三章では、ジェンダー・フリーが少子化の要因であるのかどうかを、女性労働の現実、人口減少社会の問題の核心、子育て最中にある世代の労働と生活の現実から分析している。
 第四章では、性教育に焦点をあてて、子どもの性的な発達を踏まえて、学校から高等学校までのジェンダー/セクシュアリティの教育の内容案を提示している。
 第五章では、性的マイノリティを「見える存在」としてとらえる意味を問い、性的マイノリティを媒介とする教育実践の意義と課題について考察している。
 第六章では、ジェンダー・バックラッシュの中で、家族がどのように問題にされているかを明らかにし、そうした家族言説に対抗する教育実践の方向性を探っている。
 第七章では、近代においてジェンダー・カテゴリーがどのように生成されたのか、その下で近代学校はアイデンティティの形成にどうかかわってきたのかを考察し、それに対抗する「学びのあり方」を考察している。
 ところで、ジェンダー/セクシュアリティの教育の発展とは別に、もっとも根本的な問題として、なぜ、バッシングが行われ、ジェンダー/セクシュアリティの教育のバックラッシュが進められるのか、また、それらの意図は、学校教育全体をどのような方向に進めようとしているかが問われなければならない。
 第八章では、それらについて考察を行い、それを乗り越える教育の方向性を述べている。
 本書の執筆は、日本教育方法学会第四〇回記念大会(二〇〇四)における課題研究「教育課程・教育方法におけるジェンダー/セクシュアリティの政治」に参加したメンバーによるものである。諸教育学研究においても、ジェンダー/セクシュアリティは重要な視点と認知されつつあると言えるだろう。本書が、教育の研究者および実践者をはじめ、これらの教育に関心のある多くの人々の間で大いに論議され、ジェンダー/セクシュアリティの教育の前進に役立つことを願うものである。

二〇〇六年一月
執筆者一同

内容説明

性教育、ジェンダー・フリー教育、家庭科教育を、共通にジェンダー/セクシュアリティの教育を受け持つ教育としてとらえ、バッシングの本質を明らかにし、それを乗り越えるジェンダー/セクシュアリティの教育の方向性を提案する。

目次

第1章 性教育・男女平等バッシングの背景と本質―日本の動向・世界の動向・包括的性教育の課題
第2章 ジェンダー/セクシュアリティ/家族をめぐる教科書検定
第3章 人口減少社会の争点と男女共同参画社会への課題
第4章 子どもの性的発達と性教育の課題
第5章 性的マイノリティバッシングから見えてくる性教育の課題―構成主義としての性教育実践の視点
第6章 ジェンダー・バックラッシュと家族の言説
第7章 アイデンティティと教育をめぐる政治―ジェンダー/セクシュアリティ問題が示唆するものとそれへの対抗
第8章 ジェンダー・バッシングと教育の秩序化批判

著者等紹介

浅井春夫[アサイハルオ]
立教大学コミュニティ福祉学部教員

子安潤[コヤスジュン]
愛知教育大学教員

鶴田敦子[ツルタアツコ]
聖心女子大学教員

山田綾[ヤマダアヤ]
愛知教育大学教員

吉田和子[ヨシダカズコ]
岐阜大学教育学部教員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。