出版社内容情報
ニート・フリーターが社会問題となっている今、若者たちが社会で生きていくためには何が必要が――その問いを学力問題に関連づけてとらえる意欲作。一人ひとりを支えようとする実践と、社会変革を展望する視点がこの本を普通の「若者論」に終わらせない。
はじめに
第1章 若者たちは今
なぜフリーターになるのか、なぜフリーターを雇うのか――フリーターの取材現場から
不安定化し個別化するおとなへの移行――調査から見える若者たちの姿
第2章 新自由主義と若者政策
フリーター・ニートとは誰か――つくられるイメージと社会的視点の封印
第3章 若者の自立を支える
ようこそ「センパイ」から「ようこそ先輩」へ――地域に中学生と若者の出会いをつくる
進路を切り拓く「学力」を育てる国際協力と地域づくり――高知商業高校生徒会12年の歩み
地域で生きることと働くことのあいだ――生きた学力の基盤としての新しい地域像
漂流し続ける新しい不安定雇用労働者――社会参加の主体への脱皮を支える労働組合の実験
第4章 イタリアに見る若者の社会参加
参加への回路としての協同労働と「社会的排除との闘い」――問われる「排除」との向き合い方
第5章 これからの社会と自立像――「学力」論議を超えて
<不安>を超えて<働ける自分>へ――ひきこもりの居場所から
青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる――安心して生き働ける最低限の保障を
次代をひらくシティズンの形成――信頼再生プロセスへの参加保障
あとがき
はじめに
若者たちの現実の向こうに、次代の社会をきりひらく
本書のタイトルは、「ニート・フリーター」にも「学力」にも、実はカッコが必要だ。こんな本を出しておきながら今さら何を言っているのだと、笑われ、怒られそうだが、それを覚悟で“言い訳”するなら、私たちはこのいずれのことばをも、自明な概念(カッコなしで使用できる自分のことば)として使いたくはないと思っている。
ならばなぜ、このような本をつくったのか――それは、煎じ詰めるところ以下の2点に尽きるだろう。まず一つには、近年マスコミ露出度の著しい「ニート・フリーター=若者問題」や「学力問題」をめぐる言説状況について、もとよりそれを十把ひとからげに論じることは慎まねばならないが、しかしなお、その全体としての論調や空気のようなものには、当事者近くで仕事をしてきた者たちとして、さまざまな面での疑問・違和感・異見を抱かざるを得ないこと。そしてもう一つは、しかしだからと言って、「若者」や「学習」の世界に、今、関心を向けずともよいとはとうてい考えられず、むしろこれらの世界をめぐる現状には、私たちの社会が総体として抱える矛盾や危機性が集中的に表現されていると考えられ、したがって、そこに向き合うことをとおして、私たちの社会の今とこれからを本格的に再検討することが可能だし必要だと考えていること、この2点である。
なにごとによらず最近の状況には、その世間での論じられ方が慌ただしく施策や行政をも動かし、そのことで事態がさらに複雑化・困難化するといった危うさもある。これは裏を返せば、世間での論じられ方(市民社会的討議)のもつ重みが増しているということでもあるだろう。そうなのだとしたら、ここであえて、「ニート・フリーター」「学力」ということばを用い、その言説状況の土俵に乗ることで、いささかなりと私たちからの異見を差し挟んでみよう、そのような思いとねらいをもって本書は企画された。
言うまでもないことだが、著者11人のあいだには、さまざまな認識や見解の違いがあり得、読者の方々も、読み進めるうちに著者間での不協和音を感じられる部分もあるだろう。しかしながら、そうした違いを越えて、本書には以下に述べるようにいくつか通奏低音のように流れ続ける共通したメッセージ性もあるのではないかと、私たちは考えている。
主に1章・2章を通じて描かれるのは、若者たちの自立をめぐる困難が、当事者のたるみや甘えといった意識レベルだけではとうていとらえられず、その背後に近年のドラスティックな社会構造変容があるとの事実である。「ニート・フリーター」と呼ばれる若者たちも、その大半は社会の豊かさや家族の過保護からそこに至ったわけではなく、むしろ近年この社会で急速に進行する、人を育てる社会環境の解体化の過程で、本来あるべき社会的・公共的保護の欠如や剥奪によって、生み出されている。私たちが今、ほんとうに向き合うべき問いは、「若者たちをどうするか?」ではなく、「この社会をどうするのか?」なのではないか――そんな問いかけがそこからは発せられている。
この問いを受けて、主に3章では、学校・地域社会・労働社会というさまざまな実践現場からのメッセージが示される。それらに共通しているのは、〈関わりと社会形成のもつちから〉への注目だ。近年の教育―若者政策に色濃くあるのは、学習や支援を徹底的に「個人化」する方向性であるが、本書では、それと逆行するかの実践が描かれる。もとより、「個」はどうでもよいというのではない。外界との関わりを少しずつ広げ、その過程で自他への信頼を蓄えていくこと、自分たちの生きる社会づくりに関わり、その過程を学習が媒介すること、そうした息長いいとなみこそが、一人ひとりの若者たちを社会に生きる個として立ち上げ、同時に、その場に関係や社会をつくってもいく。
困難に満ちた現代にあっても、豊かな支援の環境を得たとき、若者たちが歩み出しつくり出す世界は、この社会の困難そのものを乗り越えていく可能性に満ちている。ここにとりあげた実践例の大半は、「ニート・フリーター」問題と直接的な関連はないわけだが、少し注意深くお読みいただけば、「若者問題」に集約されている今日の「社会問題」を次代に向けて切りひらいていく実践的手がかりが、これらの事例に凝縮されていることに気づかされることだろう。
最後に、4章・5章を通じて描かれるのは、これからの社会、これからの人の育ちのあり方への問題提起である。ここで共通して示唆されているのは、今日の社会における極端なまでの人を育てるちからの解体・縮減に抗して、しかしながら従前の日本型雇用システムとそれと連接した社会的自立像に逆もどりするのでもなく、もう一つの、人が育つ社会と社会的自立像を追求することの必要性である。なかでもとりわけ重視されているのは、個としての若者を育てる視点ではなく、若者たちの関係やつながりが育ち、社会がつくり直されていくプロセスでこそ主体としての若者たちもまた育つという視点である。「学力」を個体に宿るものと見る視点が、ここでは根源的に問い直されることになる。
迷走の感も増してきた「若者問題」と「学力問題」をめぐる言説状況に、本書がささやかなりと一石を投じることになればと、願うばかりである。
2005年11月
平塚 眞樹
内容説明
1998年の学習指導要領改訂をきっかけに高まった学力論争は、2004年12月に公表された国際学力調査の結果を受け、新たな段階を迎えています。今、私たちは、学力テストに表れる「学力低下」や学力競争の結果に一喜一憂して、教育のゆくえを見誤ることを厳に戒めなければなりません。真に問われているのは、これからの世界に生きる子ども・若者たちが身につけるべき学力とはどのようなものか―学力ということばそのものから問い直すこと。そして、明らかになった「学力格差」を現在の教育における最も重要な課題としてとらえ、学校や教育のあり方をどのような社会をつくっていくのかという展望にむすびつけて検討し、政策化していくことではないでしょうか。これまでの議論の枠組みを変え、学力論議を新しいステージへ。未来の社会への希望と一人ひとりのしあわせをつなぐ学力論への試みをお届けします。
目次
第1章 若者たちは今(なぜフリーターになるのか、なぜフリーターを雇うのか―フリーターの取材現場から;不安定化し個別化するおとなへの移行―調査から見える若者たちの姿)
第2章 新自由主義と若者政策(フリーター・ニートとは誰か―つくられるイメージと社会的視点の封印)
第3章 若者の自立を支える(ようこそ「センパイ」から「ようこそ先輩」へ―地域に中学生と若者の出会いをつくる;進路を切り拓く「学力」を育てる国際協力と地域づくり―高知商業高校生徒会12年のあゆみ ほか)
第4章 イタリアに見る若者の社会参加(参加への回路としての協同労働と「社会的排除との闘い」―問われる「排除」との向き合い方)
第5章 これからの社会と自立像―「学力」論議を超えて(“不安”を超えて“働ける自分”へ―ひきこもりの居場所から;青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる―安心して生き働ける最低限の保障を ほか)
著者等紹介
佐藤洋作[サトウヨウサク]
1947年生まれ。NPO法人文化学習協同ネットワーク代表理事。不登校・ひきこもりの子どもや若者たちのフリースクール主宰。若者とともに、進路探しマガジン「カンパネルラ」を発行したり、さまざまな若者自立支援プログラムを展開
平塚眞樹[ヒラツカマキ]
法政大学社会学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。