内容説明
個人と国家にとって、この天災と人災の時代を生きぬくために、いま、何が必要か?もう一つの「憲法」入門。
目次
非・常識に対して常識を、常識に対して反・常識を言う必要―憲法を議論する際に
「自然」の集団と「人為」の個人―憲法が想定する「国民」とは
「リベラル」=社会民主主義vs「リベラル」=市場主義―経済的自由と二種類の規制
「自分のことは自分で決める」自由と、しかし侵してはならない「人間の尊厳」―自己決定とその限界
競争を制限して護るべきもの―働き・学び・育て・暮らすこと
「五五年体制」は悪かっただけか―政権交代さえあればよいのか
「市民」は「国民」の代役になるか―「市民」の二つの対照例
「身近な司法」であればよいか―裁判と「国民」の関係
君主の役割のパラドックス―「象徴天皇」のむずかしさ
「普通の国」を超えるのか、「普通の国」以下でよいのか―憲法九条をめぐって
「この国のかたち」ということの意味―憲法を変えるということは?
近代国家の「罪」?―「新しい理論」vs「古い憲法学」
著者等紹介
樋口陽一[ヒグチヨウイチ]
1934年、仙台市生まれ。憲法学。東北大学・東京大学・パリ第2大学・パリ第5大学・社会科学高等研究院(EHESS)・フリブール大学(スイス)・上智大学・早稲田大学で教授、客員教授を歴任。その間、1981年に国際憲法学会創設委員となり、現在、同学会名誉会長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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壱萬弐仟縁
20
活字は大きめで読みやすい。 もろい自由としたたかな自由(48頁~)。 心の自由とおカネの自由そのものの間に 優劣をつけているわけではない(49頁)。 個人の良心に忠実であろうとするのは、 しんどい生き方にならざるを得ない。 しんどい生き方を選べ、というのが 憲法論(60頁)。 国際的憲法学者の先生ならではの説得力。 本来、教育というのは、私的な自由であった はずじゃないか(78頁)。 2014/04/08
まさにい
7
西欧からの概念である『憲法』を日本に取り入れて自家薬籠にすることは難しい。一神教的対立から寛容という経過を経て、価値相対主義を標榜していた西欧憲法に対し、多神教下宗教が世俗化している日本で、最高裁の憲法解釈が『一種の経験主義(経験に基づいて人権を考える)』で行われているという指摘には初めて触れた。なるほどと思う、がそこには明確な基準はなく、種々の批判の下に晒されるのも頷ける。遠大なる虚構である人権という観念ではあるが、この人権という観念を取り入れざるを得なかった歴史を顧みる必要は絶えず意識すべきであろう。2018/07/14
keepfine
4
司法、天皇制、改憲など憲法に関わる様々な論点に応答/弁明していく。本書の特徴として、1原理原則論に立ち、2右左イデオロギーから自由で、3平易に書かれていること。故に読んでいると新たな論点も想起されるし、深掘りし甲斐がある、大変示唆深い本。たとえば終章は人権と主権のための弁明。「人権」概念の抑圧性を告発するポストモダンやフェミニズムに対する弁明。また「主権」において統治の決定単位を設けることを否定する論調への弁明(→公共社会の運営にとり鍵となるレスポンシビリティを問うという前提自体を否定してしまう)など。2017/04/29
メルセ・ひすい
4
15-44☆お言葉…ルネ・カピタン‘39「レピュブリックとは何っ人は生来、本質的に自由だ。…しかし、この自由は…自然の力によって、また、…無秩序、不公正、強者の弱者支配、人間による人間の搾取を引き起こす社会によって、絶えず脅かされている」「自由を万人にひとしく保障すること…のために、諸個人の自由を秩序立て、自由の相互保障を確保し、それらの確保に必要な秩序と公正を支配させるのである」拝 日本の「憲法学」の権威である著者が、戦後最大の危機といえるこの時代に、厳しい現実を見つめ直し、市民から見た憲法とは何2011/07/24
馬咲
3
本の題名は近代憲法が前提としてきた主権・人権の主体=「強い個人」の非現実性を衝いた今日の多元主義的視点からの近代批判を受けてのもの。近代憲法の「自明の常識」を西欧・日本の近代史も踏まえながら確認しつつ、それら基礎にも突き詰めれば緊張関係、疑うべき論点があることを示す。持論には拘らず近代憲法論と今日の現実との距離を示して読者の問題意識を喚起することに力点を置く。憲法は本来権力の方を向いてそれを縛る枠組みだが、国民に対しても自由の相互保障の実現の為に必要なことを不断に問いかけている存在なのだと感じさせられる。2022/08/14