動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある

  • ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません。
  • サイズ B6判/ページ数 323,/高さ 20cm
  • 商品コード 9784480847430
  • NDC分類 135.5
  • Cコード C0010

出版社内容情報

猫に自らの裸を見られた体験から始まる講演など4編を収録。デカルト、カント、レヴィナス、ラカン、ハイデッガーを辿り直し、動物と人間の伝統的な対立関係を考察する。

この商品が入っている本棚

1 ~ 1件/全1件

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

壱萬弐仟縁

28
06年初出。アドルノ:観念論者は唯物論者を罵倒する、人間扱いすることで罵倒するので動物とは罵倒することが含意されている(191頁)。人間は話す動物で、言葉の餌食であるような獣(225頁)。不思議な表現。欺瞞とは、他者を惑わすために、真実とは別のことを他者に信じるさせるために真実を言うという代補的可能性を、真実を約束することで含むことでの嘘(236頁)。Animalとは三重の暗示で、悪=苦痛は雄から動物に到来(訳者あとがき309頁)。日本文学でいうと3つのマルという押韻が見られるのである。2015/03/10

34

19
この本のなかにはラカンとハイデガーへの正面切っての対決が含まれている。あなたはどちらが正しいと感じるだろうか。彼らの人間中心主義を批判するデリダか、それとも? このそれともが問題だ! というのもデリダが正しいとしても、ラカンとハイデガーが間違っているとはかぎらないからである。しかしデリダの視点からは、両者が正しいとする視点は導出できない。「デリダかラカンか」という問いに「両方で!」と答えることができるのは実はラカンの視点だけである。考えるべきは(おそらくデリダの批判以前には存在しなかった)この視点だろう。2018/11/18

ハチアカデミー

17
風呂上がりの哲学者が猫に裸体を見られることで恥じらいを覚える。だがしかし、なぜ「私」は恥じるのか、何に恥じているのか。そんな導入からはじまる、西洋哲学における「動物」像を問い直す一冊。「動物」を自明の存在とし、人間との二項対立で論じてきた過去の哲学の誤解を指摘しつつ、人為的に作られた人間/動物の境界を打ち消さんとする。その上で「動物」とは「形而上学的概念」に過ぎないと指摘。それは概念にすぎないとみなすことで、「言葉以前の世界」、動物が「動物として」みられる以前の(開かれた)可能性を見ることができる。2015/03/11

2
例えば、犬が人間ほど考える力があり、しかし絶対に人間と対話することが出来ない世界線では犬って何を考え、人間に対して論じるのだろう。 結局お互い近づくことは出来ても推測以上はないのだけれどね。考える力が人間と同等なら人間みたいになるかもしれないが、人間だってお互いのこと理解出来ないでしょ。だからこそ面白いと思うし、そこから生まれる哲学も娯楽もある。私だって理論上はこの本を書く事が可能であるんだよ。しかし過去に書かれていながら、私の前にいるんだよね。凄いね。2023/05/05

アルゴス

2
晩年のデリダの最大テーマである「動物哲学」を扱ったセミナー。デカルトを手始めに、ラカン、レヴィナス、ハイデガーにおいて動物がどのように人間と異なる存在として扱われているかを考察する。この人間と対比した動物の位置づけが、それぞれの哲学者における根本的な盲目性を明らかにするとデリダは考える。そしてそれは西洋の形而上学の根本的な盲目性であると。必読の書物。★★★★2017/12/14

外部のウェブサイトに移動します

よろしければ下記URLをクリックしてください。

https://bookmeter.com/books/8926256
  • ご注意事項