出版社内容情報
東洋的,日本的な自我観にもとづいて,人間というものがいかにして「人と人との間」に自分自身として生きているかということを,その生き方が危機に陥った姿(離人症,家族否認症候群,自閉症,精神分裂病など)を通して痛切に訴える。従来の精神医学の在り方,方法論,さらに日本人であるわれわれの生き方に,鋭く反省をせまる,真の人間学的試みである。
★木村敏さん「『自覚の精神病理』のこと](「i feel」出版部50周年記念号より)★
「私の最初の著書であるこの本を、私は二度目のドイツ留学中の一九六九年に執筆した。その前年、まったく無名で、田舎の精神病院の一勤務医にすぎなかった私に、新書を書くように誘ってくださったのは山崎弘之さんである。一般読者向けの啓蒙書は書けないなどと生意気なことを言う私に、山崎さんは、紀伊國屋は出版だけやっているわけではないから売れなくてもいいのだ、書きたいことを書いてほしい、と言って下さった。その言葉に甘えて、しかも「あとがき」にも書いているように「ありあまる時間を与えられて」書き始めたのがこの本である。
当時の私は、西洋の思想的伝統の上に築き上げられた精神病理学の土壌に、日本的なものの見方や考え方を導入するにはどうすればよいかを、しきりに模索していた。私はいくつかの幸運な偶然に導かれて、離人症と統合失調症という、いわば「自己の精神病理」の中核的な病態を自分の研究の中心的なテーマとして見定めていた。そして、西洋人と日本人との感性がもっとも激しくすれ違うのは、この「自己」という概念をめぐってではないかという漠然とした感触を持っていた。私たちが「自己」とか「自分」とかいう言葉で感じとっているものと、西洋人が「セルフ」という言葉で感じとっているものとのあいだには──西田幾多郎が「自覚」と呼んだものと西洋哲学が「自己意識」と名づけてきたものとのあいだには、といってもよいだろう──思いがけない大きなズレがある。さらに、西洋人が自分のことを語るときにはかならず口にする「私」という代名詞を、日本人はたいていの場合、話し相手との暗黙の了解のもとに使わずに済ませている。だから「私」を概念化した「自我」という用語は、日本人にとっては非常に馴染みにくい。
その後の約四十年間、私は結局このテーマだけを論じながら自分の精神病理学を語り続けてきたといってもよい。もちろんその語り口はいろいろと変化してきたし、さまざまな補助概念を使ったり躁鬱病や癲癇のことも書いたりして、それなりに理論的な整備もしてきたつもりである。しかしいま、もう一度この『自覚の精神病理』を読み返してみると、この本の中には私が現在の時点でいちばん言いたいと思っていることが、まことに稚拙な表現ながら、すでにあらかた書かれているような気がする。この本を書かせていただいた紀伊國屋書店と山崎弘之さんに、改めてお礼を申し上げたい。」
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