シリーズ・哲学のエッセンス
デカルト―「われ思う」のは誰か

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  • サイズ B6判/ページ数 126p/高さ 19cm
  • 商品コード 9784140093078
  • NDC分類 135.2
  • Cコード C3310

内容説明

究極の懐疑はどこへ向かうのか。自らの生をよりよく導くために絶対に疑いえないものを求めた方法的懐疑はどこへ向かうのか。神の存在証明は成り立つのか。デカルトが行き着いた極限の思考の営みを解き明かす。

目次

序章 哲学とは何か(死んだものとの対話;「よき生」のために)
第1章 「われ思う」のは誰か(夢;狂気;「私」とは何か)
第2章 「われ思う」に他者はいるか(観念の起源へ;「無限」ということ)

著者等紹介

斎藤慶典[サイトウヨシミチ]
1957年横浜生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、慶応義塾大学文学部哲学科教授。哲学博士。専門は、現象学、西洋近・現代哲学
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

harass

62
高田明典の本から手に取る。ありがちな有名哲学者の入門概説書ではなく、著者が自由に語っていく薄いシリーズ。デカルトの「われ思う故にわれ有り」や神の存在証明についてを徹底的に論じていく。著者は古いと思われがちなデカルトのこの言葉を新たな読み直しをしている。目眩がするようなスリリングな考察になっていることに驚く。極限の懐疑の行き着く先は、「『思う・考える』自分という存在ではなく」あれなのか…… やっぱ信じるかどうかってことかいな。2017/09/02

またの名

8
目の前の相手や故人との対話には主題の死があり復活があり云々と出だしからしばらく著者独自の現象学みたいな記述が続く、見た目ほど入門的でもない解説書。デカルトを全く知らない人にゼロから説き起こすというよりもよく誤解されがちな点を払拭する挑戦的な解説は、例の方法的懐疑によって発見されたのが自ら「思考するもの」でも何かに「思考されるもの」でもないことをスリリングに提示。神の存在証明を不可知な領域への消極的言及であるかのように読み直す手つきなどに、現象学やデリダを経た時代からの遡及的読解であることの刻印が明らか。2016/02/21

しんすけ

6
1+1が2となること、三角形の内角の和が2直角であることは疑い得ないことなのだろうか。かって平行線は永遠に平行線であり、どこに至っても平行線であることは疑われることは無かった。だが19世紀後半以降に生を受けた人間は、それを疑い得ることを知っている。しかしユークリッド空間に視点を置けば、平行線は未だに永遠に平行線であることに変わりない。立場を変えれば異次元の存在を認識し得ることの可能性を、現代人は認知することになったとも云えよう。2018/03/27

my_you

3
あの命題の重要さが、思う我ではなく思うことそれ自体にある、という一章の主張は、ちょっとデカルトかじってるひとならたぶんしってる。二章では、神の存在証明を、第一原理にのっとってどこまで納得できるかという問が出される。少し難しいがこちらの方が面白い。普通は「あの時代だから神の存在証明は多少無理があっても仕方ないよ」と片付けてしまう。そこをちゃんと対話する。だからこれは単なる解説書ではないのです。2010/10/01

オランジーナ@

2
難易度高い本でした。デカルトさん虚弱体質なのに朝5時起きで女王に講義して死んじゃったんだね。2022/01/24

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