内容説明
クラシック音楽の演奏会では厳粛に耳を傾けるという聴取態度は、決して普遍的なものではなかった。社交界のBGMだった18世紀、ベートーヴェンの神話化、音楽の商業化、軽やかな聴取…文化的、社会的背景と聴衆の変化から読み解く画期的音楽史。第11回受賞作。
目次
1 近代的聴衆の成立(序―近代的演奏会の光景;演奏会システムの確立;高級音楽と低俗音楽;神格化される「巨匠」たち)
2 近代的聴衆の動揺―一九二〇年代(環境を浸食する「複製」;自動ピアノの饗宴;大衆文化と「前衛」作曲家たち)
3 近代的聴衆の崩壊(カタログ文化の到来;商業主義の擡頭;音楽の大衆化と「精神性」の没落)
4 新しい聴取へ向けて(軽やかな聴衆の誕生;音の復権へ;消費社会の中の「クラシック」)
補章 七年後の「ポスト・モダン」
著者等紹介
渡辺裕[ワタナベヒロシ]
1953(昭和28)年、千葉県生まれ。83年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(美学芸術学)単位取得退学。大阪大学助教授などを経て、東京大学大学院人文社会系研究科教授(文化資源学、美学芸術学)。『聴衆の誕生―ポスト・モダン時代の音楽文化』(春秋社)で89年度サントリー学芸賞受賞、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社)で2002年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、『歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書)で10年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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しゅん
19
「クラシックは集中して聴くべき」という糞真面目な倫理が実は19世紀という近代に醸造された歴史的産物に過ぎないという視点に沿って紡がれる聴衆論。ポストモダン的な軽やかさをあまりに軽く肯定しているのでは?と感じていたら、補論で、近代を集中的聴取の時代と見なすことも我々の切断の欲望、自分達は過去を超越していると誇示したいという欲望が生んだ幻想に過ぎないと反転が生じていて、そうした軌道修正も含めて、読み手の音楽への捉え方を揺るがす力作だと感じた。無視されがちな自動ピアノの技術と宣伝に着目しているところがミソ。2017/09/28
つまみ食い
6
モーツァルトやバッハの時代、音楽に関しては有機的統一体を持った作品という概念は成立しておらず、作品を清聴し解釈をおこなう「聴衆」もしたがって存在しなかった。そうした音楽作品に関する概念が大きく変わり、静寂なホールで音楽に耳を澄まし解釈をするという近代的聴取が生まれたのが19世紀だった…というところから、近代的聴取の問い直しが複製技術時代以後なされポストモダンに至るまでの変容を論じる。「近代的聴取」が果たしてどれほど確固としたものだったか本論の内容を著者自らもう一度検討する増補版の補章も要参照2023/05/02
ゆうみい
5
(クラシック)音楽の聴き手が、社会的な文脈の中でどのようにできていったのかを考察された本。クラシック=無音空間でのコンサートのイメージは確かに強かったが、「作られた」ものであったことに驚き。でも正直一番驚いたのが、補章ですっかりそれまでの話を否定しているように見えたこと。こうなってくるともう音楽の話というか、文化がどう構成されていくのか、という話になってしまいそう。 でもいわゆる論説文(かつ、私はバックグラウンドがほとんどない)にも関わらずさらりと読めた。2017/09/11
Meroe
4
物音ひとつ立ててはいけない演奏会と神格化される「巨匠」から、自動演奏ピアノの奏でた夢、商業主義のなかのクラシック音楽の消費、「軽やかな」(つまり「気散じ」的な)聴取まで、クラシック音楽がどう聴かれてきたか、そのことは同時に、どう演奏され、どう設計されてきたかでもある。すらすら読めて、かつクラシック音楽にとどまらない広がりをもった(意図した)本。リストの熱狂的ファンの女性が彼の飲み残しの紅茶を持ち帰った(!)など、エピソードの細部もとても面白い。2012/02/28
72ki
3
―とはいえ今回(略)久しぶりに読み返してみたのだが(略)基本的な問題設定や議論の方向性は今でも十分有効であるということをあらためて感じている。(305p) 著者自身の「文庫版あとがき」に書かれているように、1989年の初版で考察、指摘された「問題」は現在でももちろん活きている。 「サブスクリプションまるで分かんねえ」な時代の「軽やかな聴衆」が居る場所とは? 三浦雅士による解説がそのヒントになるが、それ以上に今、私たちは具体的に実感できている筈。2017/04/24