内容説明
住んで、泣いて、記録した。東日本大震災直後に受けた内示の転勤先は宮城県南三陸町。瓦礫に埋もれた被災地でともに過ごしながら、人々の心の揺れを取材し続け、朝日新聞に連載された「南三陸日記」は大反響を呼んだ。文庫化に際し、8年ぶりの「再訪」や、当時は記せなかった物語を大幅追加。開高健ノンフィクション賞など、数々の賞を受賞した気鋭のライターが描く珠玉の震災ルポルタージュ。
目次
序章 津波までの三〇分
南三陸日記 二〇一一年春‐二〇一二年春(無事で申し訳ありません;作業用ジャンパー;防災対策庁舎;遺体捜索;水のない町;入学式と千羽鶴;命がけの一枚;一番欲しかったもの;青空コンビニ ほか)
再訪 二〇一八年秋
著者等紹介
三浦英之[ミウラヒデユキ]
1974年、神奈川県生まれ。京都大学大学院卒業後、朝日新聞社に入社。東京社会部、南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在は福島総局員。2015年、『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞を受賞。18年、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞、「牙 アフリカゾウの密猟問題を追って」で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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rico
91
3.11で最も大きな傷を負った地域の一つ、南三陸。直後から現地に入った新聞記者が綴る1年間の記録。何が起こったのか、今どうなっているのか、多くの写真と聞くのも辛い被災者の言葉。9年が経ちコロナ禍もあって、あの日の記憶が薄れていく今だからこそ読むべきかもしれない。地震発生から津波までの30分。その意味は重い。防災庁舎で最後まで避難を呼びかける放送を続けた女性を、美談にしてはいけない。カバー写真の少女はあの日の犠牲者の忘れ形見。彼女は多くの人の希望。でも、重荷を背負わなくていい。ただただ健やかにと、願う。2020/03/31
hatayan
68
3.11の直後に被災地への赴任を打診されて、朝日の記者である著者は初任地だった宮城を選びます。殉職した警察官を訪ねたとき、ありふれた記者に成り下がった自分に向き合いきれずに号泣。 南三陸町で津波に襲われる直前まで避難を呼びかけた女性職員の婚約者からは「彼女のことを忘れたことなどない。だから思い出すこともない」という言葉を引き出します。親と死別した後に生まれた女の子は、2018年には小学校2年生として表紙を飾るまでに成長。それぞれの事情を抱えながらもたくましく歩もうとする力を感じ取ることができる写文集です。2020/03/10
ぶんこ
60
現地駐在での記者仕事は酷だ。しかも生活の場が南三陸のホテルで、そこには600人もの被災者と、勉強部屋をなくした子供達のためのスペースとボランティアの先生がいます。学校再開が遅れていた頃、駐車場のアスファルトの上での勉強があったと初めて知りました。知らない所で、同じような被災者とボランティアとの必死な生活が続いたいたのだなと感無量となりました。「海をコンクリートで固めても人は守れない。親や地域がどこまで真剣になって子に語り継なげるか。」この言葉を噛み締めた。2019/05/31
niisun
34
昨日の出張は福島。東日本大震災時の仮設住宅の跡地利用計画等を含む内陸市街地の再生計画のお仕事。往復の新幹線でこの本を読みながら、私自身もこの8年を振り返りました。震災後に岩手県沿岸部の復興まちづくりの仕事に関わっていたのは、震災直後から4年ほど。会社が借上げた現地の空き家を事務所兼住居として仕事をしました。最初に被災地に入って見た景色は一生忘れることはないでしょう。この本は震災直後から現地駐在した記者が、震災翌年まで記したコラムをまとめたもの。永く伝え継ぐために震災8年を迎えるにあたり文庫化したものです。2019/03/09
nagatori(ちゅり)。
33
帰りの新幹線の中で読もうかと買いなんとなく読み始めたのですが、最初の数ページで「あ、これダメだ」と閉じてしまいました。泣いちゃう。新幹線の中で読んじゃいけない。家で読もう。ページをめくるたび脳裏に蘇る8年前の「あの日」の記憶。私は妊娠中で静岡にいたけれど、ちょうどあの日に岩手の病院に電話をして、里帰り出産を決めたのでした。結局新幹線他交通網が麻痺して帰れず静岡で産んだのですが(^^;)だるい身体で、でも故郷が心配でとにかく帰りたかったあの日。沢山の人の人生が、あの日ねじ曲げられた。忘れてはいけない記憶達。2019/03/22