講談社現代新書
対話・心の哲学―京都より愛をこめて

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  • サイズ 新書判/ページ数 297p/高さ 18cm
  • 商品コード 9784061498174
  • NDC分類 133
  • Cコード C0210

内容説明

「我思う、ゆえに我あり」って、本当はそういうことだったんだ!デカルト、ロック、カントらの「心の哲学」が、フッサール、クワイン、ローティら現代の哲学者たちの最重要課題に、いかにつながるのか。楽しくわかりやすい対話で読み解く。

目次

第1章 おまかせのデカルト(ブリティッシュ・ライブラリー;なぜかイデア論 ほか)
第2章 そして京都(勧修寺での再会;懐疑再び ほか)
第3章 これがロックです(ロック;知覚表象説の否定的評価 ほか)
第4章 なにかが変わった(生島の研究室;ライルのデカルト批判 ほか)
第5章 基礎づけ主義再考(仕事始めの日に;フッサールの反自然主義 ほか)

著者等紹介

冨田恭彦[トミダヤスヒコ]
1952年、香川県生まれ。1981年京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得。京都教育大学助教授、ハーバード大学客員研究員等を経て、京都大学教授。哲学専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー

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左手爆弾

2
デカルト的な観念論を批判し、ローティ的な反基礎付け主義・自然主義の立場へと舵を切る。対話形式だが、きちんと哲学史的な手続きを踏んでいる。デカルトは形而上学によって自然学を基礎づけると言いながら、実は自然学の知見を形而上学に持ち込んでいる。それどころか、自然学が先にある場合すらある。デカルトにとっての観念は「私」から外部へと脱出する道でもあるが、それはデイヴィドソンが指摘するように信念と信念のぶつかり合いに陥る。いずれにせよ、デカルトが「私」を根本的な出発点と考えたことに疑義が提示される。2016/05/10

Sleipnirie

2
物を知覚した時に心に現れる観念(色・温度など)について考える観念論入門。物を知覚したのを機会に心に観念が現れるというデカルト。それと同じだけど日常で知覚する『物』は"物そのもの(大きさと形しか持たない仮説上の粒子存在)"によって現れる心の観念とするロックの考えを基本として、その後のバークリ、ヒューム、カントのロック批判を"観念と物そのものの関係"を理解してない歪んだ論理として語る。 ラストでは絶対的真理や事実を基礎に据える"基礎付け主義"のよろしくなさをフッサール、クワイン、ローティなどを使って解説する。2015/11/06

黒い森会長

1
「観念論てなに」の続編。今回は、デカルト、ロックの「観念」と外部(ものの世界)の関係を述べる。最終的に「基礎づけ主義」を批判。ただ17世紀から18世紀の哲学、とくに「観念論」についての考え方が、面白かった。フッサールがあれだけ取り組んだ「現象学」を思うと、「基礎づけ主義」批判も仕方が無い事だとは思う。単なる「何でもありの相対主義」ではないのも好感が持てる。 2015/09/09

hoshihuman

1
哲学研究を哲学学ではなく哲学に近いものとして実践している人は、日本では少ないかもしれない。 デカルト、ロックを中心にして、観念説を辿る。観念という言葉の変遷を頼りに、これまで不可知論と批判されていたロックの新たな像を描いている。

0
〈通〉○2015/11/13

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