出版社内容情報
【内容紹介】
精神異常の世界では、「正常」な人間が、ごくあたりまえに思っていることが、特別な意味を帯びて立ち現われてくる。そこには、安易なヒューマニズムに基づく「治療」などは寄せつけぬ人間精神の複雑さがある。著者は、道元や西田幾多郎の人間観を行きづまった西洋流の精神医学に導入し、異常の世界を真に理解する道を探ってきた。本書は現代人の素朴な合理信仰や常識が、いかに脆い仮構の上に成り立っているかを解明し、生きるということのほんとうの意味を根源から問い直している。
「全」と「一」の弁証法――赤ん坊が徐々に母親を自己ならざる他人として識別し、いろいろな人物や事物を認知し、それにともなって自分自身をも1個の存在として自覚するようになるにつれて、赤ん坊は「全」としての存在から「一」としての存在に移るようになる。幼児における社会性の発達は、「全」と「一」との弁証法的展開として、とらえてもよいのではないかと私は考えている。分裂病とよばれる精神の異常が、このような「一」の不成立、自己が自己であることの不成立にもとづいているのだとすれば、私たちはこのような「異常」な事態がどのようにして生じてきたのかを考えてみなくてはならない。――本書より
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
KAZOO
43
木村先生の心理学は人と人との間の関係について、岩井克人先生がかなり敷衍されていたこともあり興味を持っていました。この文献では異常についての考え方あるいは見方についての基本的な心構えというか、立ち位置についてわかりやすく説明されています。比較的一般の読者を対象とした本にしては結構内容があるように感じました。2015/06/05
ころこ
42
異常に劣等性の烙印がされるのは、正常といわれるものの持つ権力の行使によってなされる。彼らが正常なのは単に多数なだけであって、異常に向けられた視線はそれが少数だという以上に理由がない。ここまではフーコー的な言説に収まるのだが、著者はそのことがら自体において「異常」という他ないような奇妙さに着目する。地と図が反転する中では1=1の基本公式が前提とされるが、分裂病者といわれている人たちにとってはどうして自明なことではないのか。黒沢清の映画のような、正常と異常の更に外側にある「異常」を何とか言語化しようとする。2022/10/25
ヨミナガラ
17
“「精神の異常」は〔…〕社会的対人関係の異常”“いわば「多数者正常の原則」”“個物の個別性、個物の同一性、世界の単一性〔…〕基本原理が分裂病者において危機に瀕している〔…〕三原理は1=1〔…〕常識的日常性の「世界公式」”“ある患者は、これと同一の事態を「トポロジー的な場の転移」と表現”“1=0は私たちにとって〔…〕生命否定の、つまり反生命の基本公式”“分裂病者を「気の毒」〔…〕「治療」〔…〕逆に私たちが「正常性」の虚構を見抜いて「治療」を偽善とみなすのも、すべてこの生命的次元における矛盾的統一に由来”2014/11/16
さえきかずひこ
15
1973年に発表された本書は反・反精神医学の立場にたち、異常を規定するのはつねに何が正常かと定める正常側のロジックに拠るものだとの主張をくりかえす。これじたいは、近代の合理主義を批判する視点に通じるが、今となってはとくに目新しさはなくむしろ陳腐である。具体的な分裂病患者の例を紹介したあとで、結部では分裂病の発症原因を家庭環境に求めているが、現代の精神医学の知見とはかなりの相違があるのでは。今読むと1970年代前半の時代の文学的な空気を感じられるのは面白く、当時の熱心なある精神科医の実存に触れられる一冊。2019/02/17
nobody
15
そもそも自然は非合理であり、個人的生存への意志という生物体に固有の欲求を有する人間は、その欲求を実現するためには共同体を形成し社会的存在化せねばならず、そのためには常識的日常性という虚構を構築し、その存在を脅かすものとしての「異常」を排除せざるを得ない。個人面における虚構構築が偽自己の体系構築である。信頼と理解に欠ける機能不全家族の中に場違いにも優れた共感能力をもち合わせて生まれた者が分裂病者となる。その通りとすれば度外れた分裂病者差別が行われていることになるが、木村は原罪と見極める位しかできぬと涼しい。2017/07/30