内容説明
われわれはどこから来たのか。われわれは何であるのか。われわれはどこへ行くのか。この生成と存在の問題は哲学の最重要課題である。一九世紀の科学革命の成果を取り入れながら、このテーマについて根本的な問題提起を行なったベルクソン(一八五九~一九四一)の思索の跡をたどり、その現代的意味を考える、画期的入門書。
目次
1 “あいだ”と生成―われわれはどこから来たのか(存在と無の“あいだ”;過去と現在の“あいだ”;異交通的生成)
2 進化と痕跡―われわれは何であるのか(生物学と実証的形而上学;分岐と痕跡;知性と横断;開いた動対応へ)
3 神秘系と機械系―われわれはどこへ行くのか(神仏への道;開いた社会と密厳浄土;マンダラと二重狂乱)
著者等紹介
篠原資明[シノハラモトアキ]
1950年香川県に生まれる。1980年京都大学大学院博士課程修了。専攻、哲学・美学。京都大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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夜間飛行
67
存在論の系譜を巡りつつ、一見遠回りしながら着実にベルクソンに迫っていく。トマス・アクィナスの《無の先在》および神からの存在の贈与という思想…「我々はどこから来たか」と「我々は何であるか」を結びつけるその思考モデルがハイデガーまでも貫いているのは驚きだが、ベルクソンはその《無の先在》に初めて異を唱えた哲学者らしい。ベルクソンが提示した思考モデルだと、無は原初的に在るのではなく、人が何かを意識する度に無のキャンバスが現れる…つまり世界の創造は一挙になされたのではなく、絶えざる持続的営為であると考えられるのだ。2016/06/29
呼戯人
15
ベルクソンの著作を読んでいると、本当に日常的な言葉で自分の思考力だけに頼って思索していることがよくわかる。誰それの論文を引用したり、他人の思考に頼って哲学しているという感じはまったくしない。そのベルクソンの思考の全貌を描こうとしたのがこの本である。そしてベルクソン哲学の問いは、人間はどこから来て、どこへ行くのかというものであると総括している。そしてそれは<あいだ>の哲学を形成しているというのだ。存在と無のあいだ、極大と極小とのあいだ、過去と現現在のあいだ、など中間者としての人間の在り方を描き出す。2016/03/12
またの名
13
解説書や入門書で著者の思い入れが反映され過ぎてなかなか素直に解説されない哲学者ベルクソン。本書も単交通/異交通的生成やいまかつて間といったご本人には一言も出てこないオリジナル概念をやたらと挿入し、他では黙殺されがちな神秘主義と宗教の問題について熱く議論。稲垣足穂やマザーテレサや曼荼羅が召喚される必然性が不明なのにもかかわらず、そんな抹香臭い要素をまぶして説明された思想がすっきり且つ魅力的に輝く。ベルクソン自身の文章が非常に明快なので噛み砕いて説く必要はそれほどない一方、読み手各自を強く触発することを確認。2016/07/26
Bartleby
10
ベルクソンに関する本と稲垣足穂の「彌勒」の二冊を読んで、この本で二人の共通点について語られていたことを思い出したので、再読。先日読んだ前田英樹氏のベルクソン本がベルクソン自身の著作を掘り下げる形で論じるタイプだったのに対し、こちらは稲垣足穂やマザーテレサ、トマス・アクィナスなど、普通ベルクソンとは一緒に語られることのない人物たちを並べて論じていて、新しい解釈の可能性を模索するタイプの本だと改めて思った。新鮮な印象を受けるのは確かなのだけど、今の自分には評価が難しい本でもあった。2014/04/09
さえきかずひこ
6
後半がへんてこ。タルホや密教のマンダラが、ベルクソンの思想とあわせて語られるが、入門書としては不適切ではなかろうか。他の入門書にあたることにしよう。2016/12/25