ポストモダン・ブックス
ウィトゲンシュタインと精神分析

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  • サイズ B6判/ページ数 121p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784000270809
  • NDC分類 134.9
  • Cコード C0310

内容説明

われわれは言語のもつ人を惑わす力に囚われている。そう考えたウィトゲンシュタインは、同時代のフロイトの仕事に触れて、自らの仕事も「治療」であると考えたが、対象へのアプローチはおよそ対照的だった。「知ること」に溺れて自己欺瞞におちいるわれわれに対して、ウィトゲンシュタインの哲学は何を語りかけるのか。

著者等紹介

ヒートン,ジョン・M.[ヒートン,ジョンM.][Heaton,John M.]
精神療法士

土平紀子[ツチヒラノリコ]
1958年生まれ。神戸大学大学院文化学研究科博士課程単位取得退学。神戸大学非常勤講師。18世紀イギリス文学
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感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

さえきかずひこ

10
精神分析に批判的でありつつ関心も持っていたウィトゲンシュタインを山車にして、フロイトの精神分析とフロイト本人を批判する内容で、当のウィトゲンシュタインと精神分析の関係についての言及が少ない薄っぺらな本。丘沢静也による巻末のウィトゲンシュタインとフロイトについての読書案内は役立つが、本書そのものは大して読む価値はない。2018/04/14

またの名

9
言語の誤謬と心の錯覚からそれぞれ人間を解放しようとした二つの方向を比較し、共通点と違いを浮き上がらせる。というのが控えめに言った本書の目的だけど、実際は問題を意味と理論に回収する精神分析をディスって回収しないヴィトゲンシュタインを持ち上げる内容。丘沢氏が解説するように、ヴィトが「フロイトの弟子」を自称し愛読してた面をすっ飛ばして教義に固執する精神分析への批判を優先するので、理論化を経る以前の生な現実があるかのような前カント的記述等が粗いものの、その分「どっちも同じことを言って偉大!」という牽強付会はない。2015/10/18

K

1
行為が内面にある「何か」を原因として生じているというある種盲信的な前提は,心理学や精神分析の誤謬かもしれないというのは重要な示唆ではないだろうか。私たちは,「原因」と「理由」を,「私」と「私というもの」を,いろいろなものを混同してしまいやすいのかもしれない。「私」や「自己」というものをどうにかしてを規定しようとするとき,得てして「~というものだ」という直球な語り口を用いがちであるが,「~もまた私である」や「~ではない」というかたちで少しずつ浮き彫りにしていくこともまた,自己を知ることになるように思う。2015/03/18

夕刻

1
意外な組み合わせだと思ったいましたが読んでみると面白い。2010/09/03

qoop

1
新しい視点の提示というよりも、確認作業の意味合いが強い気がする。解説の丘沢静也氏の〈ウィトゲンシュタインは無意識を認めなかったが、実は日常を無意識(他者)として発見していたのではないだろうか〉というフレーズが、一番印象に残った。2010/08/12

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