禅キリスト教の誕生

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  • サイズ B6判/ページ数 236p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784000236706
  • NDC分類 190.4
  • Cコード C0014

内容説明

禅とキリスト教との単なる比較でも架橋でもなく、宗教性のさらに深い次元を拓こうとする志向と動向に与えられた名、「禅キリスト教」。坐禅のヨーロッパへの浸透に取材し、聖書を公案として読む―禅に保存された根源的体験の光に照らすとき、十字架の出来事と復活信仰の成立とが再生する、初発の体験のリアリティとは何か。キリスト教の歴史的ダイナミックスを参照することで、禅の言葉が獲得する、新しい文脈と構造とは何か。キリスト教の再定義と禅の宗教思想としての再定位、これらを楕円の二つの焦点とする、宗教的なるものをめぐる新しいヴィジョンの誕生。

目次

1 キリスト教の再定義(なぜヨーロッパで禅か―あるいは「禅キリスト教」の可能性;個を超えて一へ―現代ヨーロッパのキリスト教;伝統の継承と革新―キリスト教のゆくえ;「復活」信仰の成立 ほか)
2 “禅キリスト教”の誕生へ(ヨーロッパの参禅者と「キリスト教」―アンケート調査結果;禅とグノーシス主義;『トマス福音書』と禅;禅とキリスト教の合焦点 ほか)

著者等紹介

佐藤研[サトウミガク]
1948年生まれ。専攻、新約聖書学。立教大学コミュニティ福祉学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー

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きゃんたか

15
多少とも坐禅経験が無い者には、筆者の提唱する「禅キリスト教」が怪しからん異端の一種にしか見えないだろう。とは言え、人々が伝統的な三位一体説を奉ずる既存のキリスト教にそこはかとない閉塞感を覚えていることも動かせない事実では無いだろうか。 現今のキリスト教界に霊的な危機感を覚える筆者は、自ら坐禅経験を経るキリスト教徒として、信仰のリアリティを坐禅によって覚知できる原事実に求めるべく、聖書を禅仏教に謂う公案として向き合うことを提唱する。 あくまで同様の危機感を覚える個人として、筆者の意見には概ね同意である。2022/09/19

amanon

2
かなり示唆と刺激に富む一冊であったが、カトリック信者という立場からすると、信仰の基礎に抵触する要素が少なからずあり、いささか評価しづらいところがあるのも確か。特に問題なのは、座禅を実行しているクリスチャンの多くがイエスに神性が感じられなくなってきたというくだり。こんなことをカトリック教会内で発言したら破門にされかねない。また、このスタンスに立つと、カトリックで伝統的に行われている重要な祈りの大半も無意味なものになってしまいかねない。しかし、禅キリスト教にはかなりの可能性も感じるのも確かである。2010/10/27

とある聖職志願者。

1
プロテスタントは説教中心、み言葉中心になりすぎて、アタマばかりになる、お腹いっぱいになることがあると思います。 そこで、坐禅! キリスト者でも坐禅してもいいんです。 聖書は公案になる。2016/02/09

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