内容説明
「いざ、ひのきしん隊」教祖亡き後、その存続をかけて自己形成をはかる新宗教。当局の介入や国家主義の高まり、戦時総動員の動きといった状況のなかで、指導者や信者たちは、前代の「遺産」をどう読み替え、信仰実践の地平を拓いてきたのか。天理教を事例に、人々が生きた新宗教の実像に迫る。
目次
序章 新宗教と総力戦
第1章 信仰共同体の危機と再構築―飯降伊蔵と本席‐真柱体制
第2章 戦前における中山正善の活動―宗教的世界の構築とその政治的位置について
第3章 「革新」の時代
第4章 宗教経験としてのアジア・太平洋戦争―“ひのきしん”の歴史
第5章 宗教のなかの「聖戦」/「聖戦」のなかの宗教―“ひのきしん”の思想
第6章 「復元」の時代
終章 動員への経路
著者等紹介
永岡崇[ナガオカタカシ]
1981年奈良県に生まれる。2004年大阪大学文学部人文学科卒業。2011年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。現在、日本学術振興会特別研究員、博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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月をみるもの
14
教祖みきの死後、組織の維持を担った息子や幹部たちと、信仰の核となった本席飯降伊蔵がどう関わっていたのか、、を描く第一章。東大宗教学科を出た孫の正善が、みきの言葉を聖典としてまとめていく第二章。どちらも、あたかも原始宗教の発展(堕落?)プロセスの再現のように思える。大本についての、こういう本が出てるならぜひ読んで、「邪宗門」との違いを確認したい。2022/11/23
mittsko
6
勉強になりました! 表題には現れていないが、天理教研究の書である。とくに、1887~1947年のあいだ同教が、植民地主義や侵略戦争に加担するにあたり、教義や信仰の形態を変容させていった様を、さらにはその変容が一過性の表面的なものではなく、今日の天理教にまでつながっていることを、綿密な歴史学的手法によりあきらかにする。ひとつの教団に、そのトップと草の根の双方に徹底して寄り添い、歴史を記していくこの作業は、近代日本の「新宗教と総力戦」、さらには「宗教と戦争・政治」を見通す、必須の作業なのだ、と筆者は考える。2017/11/26
りゃーん
3
ここ迄泥臭い人文の論文を読んだのは久々である。 先行の宗教学者の論述を参照し、今回の焦点である幕末から戦後迄の天理教の外観を作り上げ、おそらく読んで面白いものではないのであろう「おふでさき」などのテクストを読み解き、時代の趨勢などのコンテクストを参照し、戦前・戦中に現れた天理教の国策運動「いざ、ひのきしん」に日本近代の新宗教のオチを見る、というなんとも正攻法な論文である。 オレ、高橋和己「邪宗門」を読んでいたから、判るが、これが天理教でなく、大本教ならば、エンターテインメントな論文〜丸山眞男や柄谷2016/04/23
maqiso
2
天理教の信仰は総力戦が進むとともに変化していったが、個々の信仰は戦前や戦後の信仰と断絶したものではない。呪術的で反体制的な面が強かった集まりが、組織や教義が整うことで「聖戦」に矛盾しない「ひのきしん」の思想をもったというのが面白い。天理教に絞っているのでかっちりしていて分かりやすいが、他の人々が総力戦とどう関わったかの比較も読みたい。2019/06/08
晴天
2
かつて官憲から弾圧を受けていた新宗教は、総力戦に際して大なり小なり戦争協力を行い、特に天理教は労働力の供給、武装移民の派遣などの際だった奉仕を行った。その際、どのように教義を解釈し、また、戦後にはどう総括したのか。そして国家奉仕を説く教団指導部と動員される一般信徒との間の温度差は。新宗教の歴史における総力戦の特異性と戦前から戦後へと連なる連続性について、天理教を中心に読み解いていくのが興味深い。著者は外部の立場から史料を読み解いているのだが、教団研究をしていると日常的に誤解されるという。大変な研究である。2019/01/04