出版社内容情報
ディズニーランド的な内部で充足する非日常の世界は、ありとあらゆる消費空間に類似の消費施設として全面化している。この状況にいかに抗うか。あるいは、いかに巧くつきあうか。テクノロジーと人間との今後を問う。
内容説明
いまや誰もが「ディズニーランド」の住人である。「それなりに愉しく幸福な絶望」の日常に絡めとられた私たちに、いかなる「生」が可能なのか?才気溢れる筆致で描く、希望のメディア論。
目次
第1章 ディズニーランド化する社会
第2章 外部の不在、希望という外部
第3章 社会変革の実践から日常の実践へ
第4章 テクノロジーと身体の“アトラクション”
第5章 契機としての“テクノロジーの遊戯”
第6章 ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか
著者等紹介
長谷川一[ハセガワハジメ]
1966年、名古屋市生まれ。千葉大学大学院中退後、書籍編集者として働く。東京大学大学院情報学環・学際情報学府博士課程満期退学。東京大学大学院情報学環助手を経て、明治学院大学文学部芸術学科教授。専門はメディア論、メディア思想、文化社会学。博士(学際情報学)。おもな著書に『出版と知のメディア論』(みすず書房、2003年、日本出版学会賞奨励賞)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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センケイ (線形)
3
ありふれた程々の幸せが真綿で首を絞めてくる中、その対策としてテクノロジーとの向き合い方を精査していく、大胆なかじ取り。広告、技術、インフラストラクチャーに徹底的に囲まれ、確かに我々が自らの望みを選ぶことは難しくなって感じられる。このように身近で共感できる、しかし根の深い課題が示されつつ、これに対し、都市社会学や、ワークショップ理論、技術史・映画史と多くの要素を巻き込み、何とか立ち向かっていかんとする突き進み方に、物語的な魅力もあった。先述の本が掲げた課題に対し、その対策として続編のようにも楽しめると思う。2018/06/30
おだまん
2
実感としてあるなぁ、アトラクションと化した閉じた世界。非常に示唆に富んだ意見でした。2014/11/22
Mealla0v0
1
「それなりに愉しく幸福な絶望」をわたし達は生きている。著者はそうしたテクノロジーが全域的に浸透した外部不在の社会を「ディズニーランド化する社会」と呼んだ。ディズニーランド的なものは、既に社会を覆い尽くしており、いわゆる環境管理型権力の行使が問題とされる。いや、問題はむしろ、そうしたテクノロジーの浸透した社会において、わたし達の身体がそれと動機すること、つまり、その〈アトラクション〉の機制の方なのだ。批評性の失した「楽しい」が目的化した社会において、「希望」があるとすれば、「愉しみ尽くすこと」のほかにない。2017/08/01
Hiromu Yamazaki
1
資本とテクノロジーによって「ディズニーランド化する社会」にもはや外部は存在せず我々は「アトラクション」と共に「愉しい」が絶望的な世界に生きる。外部の存在しない中で超越的に参照項を設け「希望」を議論することは意味を為さないと提起し、最終的にはベンヤミンの「第二の技術」を引用しつつ目的や機能を持たない日常的実践として「アトラクションの遊戯」にその活路を見出そうとする。学位論文のアレンジであるため冒頭は既往の議論が丁寧に整理されているが、後半はやや冗長でブルデューなどを引用するが徒らに議論を難しくしている感。2014/10/24
au-lab
0
いわゆる不可能性の時代における「外部の不在」という出発点から議論を組み立てる。超越性と内在的な視座の往復をどう捉えるかという根本問題はあるものの、全域的なテクノロジーの浸透をアトラクションという観点で捉えなおし、テクノロジーの遊戯という原身体的な実践を語りうるものとしてあぶり出す。 身体的・物質的な同期を、インターネットを含む広範なメディア体験に拡張して考えた時に、どのような「動詞」が析出可能なのかは考えてみたい。2016/07/26