出版社内容情報
頭を空っぽにしなければ、行為できない。『動きすぎてはいけない』『勉強の哲学』の哲学者が「身体と行為」の本質を問う待望の論集!
千葉 雅也[チバ マサヤ]
著・文・その他
内容説明
『動きすぎてはいけない』では切断へ、『勉強の哲学』では変身へ、そして「身体と行為」の本質へ。頭を空っぽにしなければ行為できない。千葉雅也の哲学、十年間の全貌。
目次
1 身体
2 儀礼
3 他者
4 言語
5 分身
6 性
著者等紹介
千葉雅也[チバマサヤ]
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第十大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代哲学の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
37
タイトルと同じ論文が冒頭にあり、出色です。ラカン読解の助けと、現代思想の見取り図になっていて、さらに千葉哲学の展開を示しています。「意味がある無意味」がラカンの現実界であり、カントの物自体であるということで、初め読んで、これ自体?と思いました。無限に意味の流れ込む「穴」に対して、「意味がない無意味」は石であり、それは身体であるということです。言語は身体性に宿ることから、身体は「意味がある無意味」の方ではないかという疑問が湧き、一読では十分な理解、再構成はできませんでしたが、言語化し得ないことを言語化するこ2019/08/29
SOHSA
37
《図書館本》『勉強の哲学』に続き千葉雅也著作の読了。ざっくりと言えば、タイトルのとおり「意味がある無意味」と「意味がない無意味」を仕分けた上で、全ての事物を読み解こうとする試み。各章はそれぞれに独立していて読む順番に特段の定めはなく、どこでも好きなところから読み、また何度でもゆきつ戻りつすることができる。全体を読み終えての第一印象は現代思想の潮流はやはりこうした傾向なのかということ。それぞれに味わいの異なるキャンディはその核の部分では同じ核が埋まっている。それそれが理由なくただそうあると言いながらも(→)2018/12/23
里愛乍
26
前作を読んだ時にも感じたが、氏は言葉に関して曖昧を許さない体であると感じる。ひとつの言葉、それによる文の流れ、読み手に対し「誤った解釈」が起こらないようにとの配慮なのか、言葉の前提を明らかにしておくという。故に氏の書くものは、まるで初めて体験する文字に触れるが如く、彼の言葉の定義を会得しなければならないと思っている。彼の言葉に触れたい私はそこからだ。冒頭の概念を何度も何度も読み返す。そこにある知っているはずの言葉の文がなんと新鮮なことか。自分の中で読み終えて終わり、ではない本がまた増えた。2020/01/03
抹茶モナカ
24
いろいろな分野について哲学した雑文集のような本に『意味のない無意味』という概念を重ねて、コンセプトを後付けした感じ。LGBTの哲学者さんなので、その方面の思考は深い。いかにも哲学な文章は、さすがに普段から触れていない分野なので僕には難しかったけど、サブカルチャーについての記述は読みやすかった。村上春樹について書いているような目次から、手に取ったものの、思考の入り口としての材料で、結局、他の部分を掘り下げていて、そういう傾向はこの方の文章には多いような印象。硬派と軟派、織り交ぜながらの哲学書。2019/01/02
しゅん
16
頭を空っぽにして(?)一気に一日で読了。全てがそこに吸い込まれていく「X」としての「意味がある無意味」とは逆に位置する解釈の余地のない無意味=身体=儀礼。この儀礼的身体によって人は行為ができる、というのは著者がよくいう「切断」のパラフレーズであるが、意味の連なりを切断するような言葉(冷凍された肉、洋食器、柑橘系の匂いetc)が現れる文章自体と思想が結びついているところが強い。ラッセン論とギャル男論には特にその特徴が顕著に出ている。21世紀入ってからのフランス現代思想の入り口としても最適。2018/12/22