内容説明
いま、他者とともに語り、生み出される“わたし”へ―。サブカルチャー、データベース化する自己、ナショナリズム…外部を失い閉塞する現代日本の“自分語り”とそこにこそ潜む、教育の可能性について。
目次
はじめに “わたし”を生成する学びへ
1 生成する“わたし”(“外部”の終焉と共身体的自我へ;回帰的な自分と教育の可能性;過去の架橋と生成する“わたし”)
2 語る“わたし”(過去からの救済と語ること;“いま”語る“わたし”―他者とのあいだに立ち上がる共感的身体 台湾の民衆が語る植民地時代の過剰な自己)
おわりに 過去への寛容を導くもの
著者等紹介
牧野篤[マキノアツシ]
1960年生まれ。東京大学大学院教育学研究科教授。名古屋大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。中国中央教育科学研究所客員研究員、名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授を経て、2008年より現職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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おせきはん
12
日本統治を経験した台湾の方々の中国観、反日教育を受けてきた中国人大学生の日本観などを通じて、歴史観と歴史教育、歴史の政治利用について考えることができました。本書に書かれているように、歴史観は過去を一つの立場から見たものに過ぎないこと、知識としての過去しか知らない人の歴史感覚が容易に政治によって動員されやすいことを理解したうえで、未来に向けての相互承認、つまり過去認識の違いを違いとして認め合いながら、共通の将来に向けた対話を許し合う関係としての和解を模索することが本当に大切だと思いました。2019/07/08
あゆみ
1
途中までしか読んでないし、明日図書館に返さなきゃいけない本だけどとりあえず・・・。過剰な自分語りと言うよりは、昔の日本の歴史話みたいな話だったねー(´・ω・) 昔の学校の在り方や教育の話。日本人と台湾人は学校が分けられていたとか。シナ兵が入って来てからは、高い教育を受けた人は次々と殺されたりとか、なかなか大変だったねぇ〜2019/03/20
MADAKI
0
ナラティブの可能性とあり方を現代に問い直すといった感じ。