第六十八講 國分功一郎
選
ハイデッガーという大哲学者がこんなことを言っています――どんなに幅広く哲学を論じたとしても、〈問う〉ということによって私たちが感動させられていなければ、何も理解したことにはならないし、すべては誤解にとどまる(『形而上学の根本諸概念』)。 ハイデッガーは二〇世紀の哲学を決定づけた、博覧強記の哲学者です。彼の本を読むと、「彼以上に難しいことを考えるのは無理ではないか」と思われるほどです。しかし、そんなハイデッガーも感動しているのです。哲学者の本を読み、問い、書く、そんななかで彼も感動しているのです。
今回、私は『スピノザの方法』(みすず書房)という本を出版することができました。その中で問うているのは次のようなことです。ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか? それともその暗闇のなかには道案内がいるのか? また道案内は可能か? 道案内がいなければ我々はどうしてよいのか分かりません。しかし、道案内に従うだけなら、言われた通りにしているだけですから、ものを考えていることにはなりません。ではどうすればよいのでしょうか? スピノザはこの単純にして困難な問いに明確な答えを出しました。そしてその答えは、彼が『倫理学(エチカ)』の中で問うた、「いかに生きるべきか?」という問いにつながっていきます。 私もまたこの問いについて考える中で何度も感動し、そしてその答えを見つけ出したときに大いに感動しました。今回、紀伊國屋書店「じんぶんや」にて私が選んだ本のフェアを行っていただけることとなりましたが、本を選ぶにあたって何よりも大切にしたのは、感動を与えてくれる本を選ぶということです。 「感動」という言葉は手垢にまみれています。それは「涙を流してすっきりする」という意味ではありません。ハイデッガーの先の言葉は、「感動させるergreifen」と「理解するbegreifen」をかけた言葉遊びになっていますが、この言葉遊びでハイデッガーが言いたかったのは、感動するというのは心をつかまれることであり、心をつかまれることによって初めて人は何かを理解するということです。ですから、ここに言う感動とは何かを理解する喜びに近いかもしれません。
スピノザの哲学は、先に私が掲げた「暗闇のなかには道案内はいるのか?」という問いに貫かれています。この問いはありふれたものですが、スピノザのような答えをだした人は稀です。今回のフェアでは、このスピノザの答えに関わる本を、様々な角度から選び出しています。読者のみなさんはこれらの本を通じてスピノザの近くに行ってみることができるはずです。もちろん、スピノザ主義者になる必要などありません。ただちょっとスピノザの近くに行ってみるのは悪くない。スピノザの近くに行ってみてどうも性に合わないと思ったなら、また別の方に行ってみればよいのです。このブックリストにはそのための道しるべも記してあります。 読書によって得られる感動のすばらしさとは、或る感動が別の感動を可能にすることです。私はスピノザについて勉強するなかで、「「諸根拠」の中の公理六が、『デカルトの哲学原理』では公理四として公理群の冒頭におかれている!」などということに感動できるようになりました(詳しくは『スピノザの方法』第四章をご覧ください)。この中のどれかに感動することができれば、感動はもっと広がっていきます。感動はすばらしいものです。みなさん、いろんなものに近づいてみましょう!
「〈われわれが崇高な諸問題の思索に際して安全かつ倦怠なしに進みうるような方法が存在するのかどうか、あるいは存在しうるのかどうか。それとも、われわれの精神もわれわれの身体と同様に偶然に従属し、またわれわれの思想は技術によって支配されるよりも偶然によって支配されることが多いのかどうか〉。バウメーステルが尋ねているのは噛み砕いて言えば次のようなことだ。ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか。それともその暗闇のなかには道案内がいるのか。また道案内は可能か。
スピノザは、まさにこの素朴な問いについて考えをめぐらせていた。彼は最終的に『倫理学』という書物を完成する。〈倫理学〉とは平たく言えばいかに生きるべきかについて考える学問であるから、彼は彼なりにこの問いへの答えを見つけ出したのである。われわれの目的はこの答えを解明することである。だからわれわれは、バウメーステルと同じ問いをふたたびスピノザ哲学に投げかける。そしてスピノザが残した著作にその問いへの答えを探す」
有限な知性はいかにして十全な観念を形成しうるのか。『知性改善論』『デカルトの哲学原理』から『エチカ』冒頭部までを徹底的に精読、スピノザの思考の筋道を内在的に押し広げ、その論理展開と問題意識とをスリリングに解き明かす。気鋭の哲学者による「平行論」の新たな地平、類書なきスピノザ基礎論!
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ベルクソンはこんなことを言っています。哲学者の書物を何度も読み、その思想に慣れ親しんでいくと、何か単純なもの、あまりに単純で哲学者自身が言い当てられなかった何かに出会う、と(『哲学的直観』)。哲学者の書物は難解で抽象的な概念に覆われています。しかし、それはこの単純なものを表現するための手段であり、それに到達するためにこそ哲学者は抽象的な概念を駆使してものを書き続けるのです。この単純なもののことをベルクソンは「直観」と呼んでいます。 では、この直観はいかなるものでしょうか? ベルクソンはこう言います。哲学者本人でも表現しきれなかったこの直観をわれわれ読者が表現できるはずがない。しかし、私たちにも捉えることができるものがある。それはこの直観と抽象概念との間にあるイメージである……。後にジル・ドゥルーズはこのイメージを「思考のイメージ」と呼び、いかなる哲学的理論もなんらかのイメージを前提にしていると論じることになります(『差異と反復』)。
私は哲学の本を読むときに大切なのは、その哲学者の「思考のイメージ」を捉えることだと思っています。さまざまな哲学的概念の定義を暗記していくのも大切ですが、このイメージに出会うことができなければ、その哲学者を理解したとは言えないでしょう。簡単に言えば、「この哲学はこんな感じの哲学だ」というイメージをつかむということです。『スピノザの方法』を書くにあたっても、スピノザの「思考のイメージ」をつかむことが大きな課題でした。それにはなかなか難儀しましたが、私はひとつのヒントを手に入れました。それはスピノザに大きな影響を与え、またスピノザが乗り越えようとしたデカルトの哲学と比較してみるということです。この作業を進めるなかで、それこそ私はある「直観」を得ました。それが、説得を求める哲学と説得を求めない哲学という区別です。 デカルトは説得を求める哲学を構想しました。彼の言うコギトの真理とは、どんな懐疑論者であっても説得してしまう「一撃必殺の真理」です。彼はそんな説得の要請を念頭に置きながら壮大な哲学体系を難解な概念を駆使して構築していきました。それに対しスピノザは、説得の要請こそがデカルトの哲学を歪めてしまっていると考え、説得を求めない哲学を構想したのです。
スピノザの『知性改善論』に現れているのは、説得の要請から限りなく遠いところにある真理観です。そして、同じくスピノザの『デカルトの哲学原理』に現れているのは、なんとかして説得の要請からデカルト哲学を引き剥がそうとする読解態度です。私の本はこのふたつの柱を立てたうえで、『エチカ』を読むための基礎論をつくりあげようとしています。 スピノザの名前はよく知られていますが、『エチカ』の幾何学的様式による叙述は、スピノザに関心をもった多くの読者をなかなか寄せ付けないところがあるようです。『スピノザの方法』はスピノザが要するに何をやろうとしているのかを明らかにしていますので、読者のみなさんがスピノザ哲学に親しむにあたっての一助になるはずです。スピノザに関心はあるけれど……という読者の方々にぜひとも本書を手にとっていただきたいと思っています。(國分功一郎)
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