|
 |
|  |
|
●亀山郁夫さん選書リスト
「共苦」と「黙過」がわたしの主題 ――50代の読書
|
|
|
「9.11」の日、わたしはロンドンにいた。ツインタワー崩落のシーンと、窓から落ちていく「ジャンパー」たちの姿をホテルのテレビで飽かず眺めるうち、わたしは一種の既視感にとらわれた。ドストエフスキー『悪霊』のワンシーンである。主人公ニコライ・スタヴローギンは、自分が凌辱した少女が首をつりに中庭の物置に歩いていく光景をアパートの四階から目撃する。少女が死を決意していることをわかっていながら、救いに行こうとはしない。この瞬間、スタヴローギンは、自分が神の代理人であることを意識していた。そう、ツインタワー崩落を見ている人々全員が、神になったとわたしは感じたのだ。多少作り話めいて聞こえるだろうが、わたしがドストエフスキー熱に再び取り憑かれるにいたった遠い背景にはこの事件がある。といっても、当時はまだスターリン時代の文化研究との二足のわらじだったし、「ドストエフスキー研究をはじめる」といっても、自分でもどこか半信半疑のところがあった。メインのテーマは、スターリン時代の政治権力、いや検閲と創造的知識人の闘いだった。ところがいつのまにか、このスターリン時代が、ドストエフスキーが生きた19世紀後半のロシアにオーバーラップしていったのである。
読書方面での50代は、充実の時代である。ドイツ出張の道づれにと思って持ち込んだ米原万里の『オリガ・モリソヴナの反語法』のおかげで、帰りのチケットをなくしてしまった。それほど夢中になって読みふけったのだ。現代とスターリン時代の二つの時代をつなぐ『反語法』は、タイトルから連想される中身とはおよそかけ離れた、神がかり的といってよい小説である。ソ連崩壊の現場に立ち会った佐藤優のドキュメンタリー『自壊する帝国』を読みながら、この書き手の、やはり神がかりともいうべき記憶力に驚嘆させられた。ソ連崩壊は、佐藤が演出したのではないかと思えるほどの臨場感にあふれるセミドキュメンタリーだった。わたしの辻原熱はまだ続いていて、「母、断章」「父、断章」といった小品に、マザーコンプレックスのわたしには痛く刺激させられた。どうしてこんな小説が書けるのか。彼もまた神がかりである。わたしが村上春樹の小説にはじめて出会ったのははるか昔のことだが(『中国行きのスロウ・ボート』)、彼の世界にふたたび回帰するきっかけとなったのは、『アフターダーク』である。クンデラとドストエフスキーをミックスして2で割ったような不思議な小説で、その謎めいた雰囲気がとても気に入った。『アフターダーク』から、逆に『海辺のカフカ』へと後戻りすることになった。わたしの印象では、『海辺のカフカ』は過小評価されすぎている。『1Q84』も文句なしに楽しめたが、どちらが好きかと問われたら、『海辺のカフカ』を挙げる。村上がなぜ「父殺し」にこだわるのかはわからないが、村上とドストエフスキーとの間には、「エディプスコンプレックス」という聖域が垣間見える。
9.11に戻るが、わたしはこの事件をきっかけにして、人並みにグローバリズムの問題にも関心を持つようになった。テオ・アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』をとおして、遅まきながら、1990年代のバルカン半島の悲劇への関心が深まった。ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』は、長いこと「黙過」ないしは非行為性のもつテーマを考えつづけてきたわたしに刺激的な示唆を与えてくれた本である。「黙過」する側の人間の犯罪性を問うだけでなく、「黙過」される側の人間の叫びに耳を傾けなくてはならないのだと思った。グローバリズムの流れに対しては、なぜかしら複雑な感慨を抱いていた。巨大な津波のように、個人の力を洗い流してしまうその渦に翻弄される心地よさは、どこか心の奥深くに根深く巣くうマゾヒズムと響きを交わしているように思えた。しかし、そのマゾヒズムを克服するヒントは、ネグリとハートの二冊の本(『帝国』、『マルチチュード』)によってもたらされた。といって、わたしはまだその二冊とも最後まで読みきれていない……。
|
|
|
※以下でご紹介している書籍は、【 紀伊國屋書店BookWeb】でお買い上げいただけます。
2つ以上の商品を選択する場合には、 チェックを入れて、一番下のかごボタンを押してください。
|
|
 |
|  |
|
|